[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月19日 原爆の残酷さ 短歌に
24年9月19日
1945年9月19日。当時56歳の河村イソさんが広島県亀山村(現広島市安佐北区)の親戚宅で亡くなった。8月6日、外出中に被爆して背中にやけどを負い、白島九軒町(現中区)の家は倒壊。37歳の長男長一さん(77年に68歳で死去)と共に身を寄せていた。
イソさんは納屋の土間に敷いた畳に寝かされ、看病した長一さんは苦しむ母の姿を短歌に詠んだ。「苦汁」と題したノートに書き残している。
「治療せど日毎に悪化を辿る母 火傷は膿もち悪臭を放ちぬ」
「苦のあまり己が命を断ちくれと 母はのらせり口ぐせのごと」
母の命を奪った原爆への思いも記されている。
「うらむらくは惨虐極まる原子爆弾(バクダン)を 発明せし者人智おそろし」
同時期、日本の新聞は被害のすさまじさを伝えていた。9月4日付朝日新聞(大阪版)は顔にやけどを負った少年(先月10日付本連載で紹介)などの広島の被害写真を掲載。「正視に堪へぬこの残虐さ」の見出しで報じた。
一方で米軍主導の連合国軍総司令部(GHQ)は10日、検閲方針の「言論および新聞の自由に対する覚書」を示した。「連合国に対する虚偽の批判、破壊的批判」などを取り締まるとした。
15日付朝日新聞は原爆使用を「毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪」と述べた鳩山一郎氏(後に首相)の談話を掲載。この記事などを受け、3日後に朝日新聞東京本社はGHQから48時間の発行停止を命じられた。「破壊的批判」などに当たるとされた。
GHQは19日に検閲方針を具体化したプレスコードを発し、「占領軍に対し不信もしくは怨恨(えんこん)を招来するような事項を掲載してはならぬ」などと報道機関を縛った。原爆関連記事は激減していく。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月19日朝刊掲載)
イソさんは納屋の土間に敷いた畳に寝かされ、看病した長一さんは苦しむ母の姿を短歌に詠んだ。「苦汁」と題したノートに書き残している。
「治療せど日毎に悪化を辿る母 火傷は膿もち悪臭を放ちぬ」
「苦のあまり己が命を断ちくれと 母はのらせり口ぐせのごと」
母の命を奪った原爆への思いも記されている。
「うらむらくは惨虐極まる原子爆弾(バクダン)を 発明せし者人智おそろし」
同時期、日本の新聞は被害のすさまじさを伝えていた。9月4日付朝日新聞(大阪版)は顔にやけどを負った少年(先月10日付本連載で紹介)などの広島の被害写真を掲載。「正視に堪へぬこの残虐さ」の見出しで報じた。
一方で米軍主導の連合国軍総司令部(GHQ)は10日、検閲方針の「言論および新聞の自由に対する覚書」を示した。「連合国に対する虚偽の批判、破壊的批判」などを取り締まるとした。
15日付朝日新聞は原爆使用を「毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪」と述べた鳩山一郎氏(後に首相)の談話を掲載。この記事などを受け、3日後に朝日新聞東京本社はGHQから48時間の発行停止を命じられた。「破壊的批判」などに当たるとされた。
GHQは19日に検閲方針を具体化したプレスコードを発し、「占領軍に対し不信もしくは怨恨(えんこん)を招来するような事項を掲載してはならぬ」などと報道機関を縛った。原爆関連記事は激減していく。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月19日朝刊掲載)