[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月中下旬 袋町国民学校 再開道険し
24年9月20日
1945年9月半ばを過ぎても、袋町国民学校(現広島市中区の袋町小)の焼け残った鉄筋の西校舎は窓がむしろで覆われ、重傷者が収容されていた。広島県は15日から各校の再開を指示したが、ほど遠い状況だった。
8月6日、爆心地から460メートル南東の袋町国民学校は児童・教職員計約160人が登校していたとされ、大半が犠牲になった。爆心地に近いため、疎開していた児童も家族を失い、戦後に戻っても親戚たちに引き取られて散らばった。袋町小の130年記念誌などによると、10月に復員した教職員たちが学校再開の張り紙をして歩いたが、一人も集まらなかった。
廃校の話も出る中、西校舎1階で被爆後、病床に伏していた坪田省三教頭が11月に復帰し、再建に取り組む。「やせこけた子供が『校舎はどこにいったの』と聞くんです。どうしようもなく抱き合って泣きました」(63年7月28日付中国新聞夕刊)。
「地下室の奇跡」といわれ、西校舎地下で生き残った児童3人も戦後散り散りになった。うち朝鮮半島に渡った後に帰国し、唯一今も健在の友田典弘さん(88)=大阪府門真市=は「学校ではごんた(やんちゃ)だった」と懐かしむ。担任に𠮟られた時は廊下をぬらして教員を滑らせた。2歳下の弟幸生さんと校舎の屋上から手作りのグライダーを飛ばして遊んだ。
あの日、西校舎の地下に下り、げた箱で靴を履き替えている時に爆風が襲った。校庭へ出ると、弟たち児童が黒焦げになって倒れていた。
130年記念誌などによると、西校舎で再び授業が始まったのは46年5月1日だった。(山下美波)
(2024年9月20日朝刊掲載)
多数の犠牲者が出た袋町国民学校
8月6日、爆心地から460メートル南東の袋町国民学校は児童・教職員計約160人が登校していたとされ、大半が犠牲になった。爆心地に近いため、疎開していた児童も家族を失い、戦後に戻っても親戚たちに引き取られて散らばった。袋町小の130年記念誌などによると、10月に復員した教職員たちが学校再開の張り紙をして歩いたが、一人も集まらなかった。
廃校の話も出る中、西校舎1階で被爆後、病床に伏していた坪田省三教頭が11月に復帰し、再建に取り組む。「やせこけた子供が『校舎はどこにいったの』と聞くんです。どうしようもなく抱き合って泣きました」(63年7月28日付中国新聞夕刊)。
「地下室の奇跡」といわれ、西校舎地下で生き残った児童3人も戦後散り散りになった。うち朝鮮半島に渡った後に帰国し、唯一今も健在の友田典弘さん(88)=大阪府門真市=は「学校ではごんた(やんちゃ)だった」と懐かしむ。担任に𠮟られた時は廊下をぬらして教員を滑らせた。2歳下の弟幸生さんと校舎の屋上から手作りのグライダーを飛ばして遊んだ。
あの日、西校舎の地下に下り、げた箱で靴を履き替えている時に爆風が襲った。校庭へ出ると、弟たち児童が黒焦げになって倒れていた。
130年記念誌などによると、西校舎で再び授業が始まったのは46年5月1日だった。(山下美波)
(2024年9月20日朝刊掲載)
多数の犠牲者が出た袋町国民学校