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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月下旬 自慢の学びや 無残な姿

 1945年9月下旬。爆心地から最も近い学校となった本川国民学校(現広島市中区の本川小)は、破壊されたままたたずんでいた。28年に完成した市内の公立小で初の鉄筋校舎も内部は焼け、爆心地側の2、3階の壁と窓枠は爆風で波打つように湾曲した。

 当時6年生の後藤睦子さん(90)=神奈川県藤沢市=は、被爆前の校舎が「自慢だった」。3階の教室から広島県産業奨励館(現原爆ドーム)を毎日眺め、夏にはそばの本川で水泳をした。ただ、太平洋戦争が始まると、校庭に掘った穴に飛び込んで逃げる練習も。「先生が厳しく、『鬼畜米兵』の一点張りよ」

 集団疎開したため、原爆投下時は十日市町(現三次市)にいた。周りの児童が家族に引き取られていく中、8月18日に東京にいた4番目の姉が現れ、「誰も迎えに来んのよ」とうれしくて飛びついた。家族を捜しに共に広島市中心部に入り、無残な母校を見た。「声にならなかった。家族もどうなっているか分からず、泣くしかなかった」

 能美島(現江田島市)に行き、実家に逃げていた母きよみさん=当時(45)=と再会できたのもつかの間。全身に紫の斑点ができ、顔は風船のように膨らみ、9月に入って亡くなった。歯科医で校医も務めていた父潔水(きよみ)さん=当時(47)=や3人の姉たちも原爆に奪われた。

 本川国民学校は児童約400人、教職員約10人が犠牲となった。46年2月、広瀬国民学校(現中区の広瀬小)と合同で授業を再開した。後藤さんは能美島にとどまり、復学できなかった。(宮野史康、山下美波)

(2024年9月24日朝刊掲載)

本川国民学校校舎

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