[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月23日 「四十九日」 町葬で弔辞
24年9月23日
1945年9月23日は8月6日の被爆から49日目となった。広島市庚午本町(現西区)の町内会は、「四十九日」に合わせ原爆犠牲者の町葬を営んだ。「広島原爆戦災誌」(71年)によれば、草津地区(同)の3カ寺の僧侶の読経により「45柱の霊」を慰めたという。
当時44歳で町内会長の安光歳丸さん(93年に92歳で死去)の弔辞が原爆資料館に残る。「四十九日に相当する本日合同葬儀を執行するに当たり、あの悲惨で残念な八月六日を思い出さずには居れません(略)広島が死と灰との街に化しまして一挙に十数万の防備なき無辜(むこ)の我々の親を兄弟を子を妻を殺戮(さつりく)し尽くしました」
爆心地から2キロ以上離れた庚午本町は焼失を免れたが、動員などで市中心部にいた住民が命を落とした。安光さんも、建物疎開作業に出た崇徳中2年の長男一夫さん=当時(14)=を亡くした。
山手川(現太田川放水路)の河口に近い庚午地区の川岸には遺体が漂着。安光さんは身元不明の少年を堤防で火葬した。「家族に見守られながら遂(つい)に亡くなられた人、白骨となって帰られた人、未(いま)だ帰らざる人、あれを思ひ之を思ふにつけ、涙は止めどなく流れ、胸はしめつけられます」
弔辞では被害の現状にも触れ「今日も尚ほ傷の腐敗、強烈な熱線と同時に放射する毒瓦斯(ガス)による内臓疾患の為(ため)に沢山(たくさん)な人達が尊い生命を断たれつつあります」と嘆いた。最後に「戦災死の皆様(みなさま)に報いねばなりません。どうか皆様、安らかにお眠り下さい」と結んでいる。
市も四十九日に合わせて市役所前に祭壇を設置。庁舎に安置された身元不明の遺骨や市中に埋もれたままの遺骨もあり、こうした犠牲者のため慰霊行事を営んだ。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月23日朝刊掲載)
当時44歳で町内会長の安光歳丸さん(93年に92歳で死去)の弔辞が原爆資料館に残る。「四十九日に相当する本日合同葬儀を執行するに当たり、あの悲惨で残念な八月六日を思い出さずには居れません(略)広島が死と灰との街に化しまして一挙に十数万の防備なき無辜(むこ)の我々の親を兄弟を子を妻を殺戮(さつりく)し尽くしました」
爆心地から2キロ以上離れた庚午本町は焼失を免れたが、動員などで市中心部にいた住民が命を落とした。安光さんも、建物疎開作業に出た崇徳中2年の長男一夫さん=当時(14)=を亡くした。
山手川(現太田川放水路)の河口に近い庚午地区の川岸には遺体が漂着。安光さんは身元不明の少年を堤防で火葬した。「家族に見守られながら遂(つい)に亡くなられた人、白骨となって帰られた人、未(いま)だ帰らざる人、あれを思ひ之を思ふにつけ、涙は止めどなく流れ、胸はしめつけられます」
弔辞では被害の現状にも触れ「今日も尚ほ傷の腐敗、強烈な熱線と同時に放射する毒瓦斯(ガス)による内臓疾患の為(ため)に沢山(たくさん)な人達が尊い生命を断たれつつあります」と嘆いた。最後に「戦災死の皆様(みなさま)に報いねばなりません。どうか皆様、安らかにお眠り下さい」と結んでいる。
市も四十九日に合わせて市役所前に祭壇を設置。庁舎に安置された身元不明の遺骨や市中に埋もれたままの遺骨もあり、こうした犠牲者のため慰霊行事を営んだ。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月23日朝刊掲載)