[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月下旬 シダレヤナギは耐えた
24年9月22日
1945年9月下旬。京橋川に架かる鶴見橋の東詰め(現広島市南区)で、シダレヤナギが枝を広げていた。爆心地から約2キロ以内の建物がことごとく全焼する中、約1・7キロ東にあって爆風と熱線に耐えた。
北川建次さん(2022年に87歳で死去)は45年8月6日、この木の記憶が深く刻まれた。「あの柳を見るたびに、子どものころや、原爆の落ちたときにあそこを通って『柳が残っているなあ』と思いながら逃げたことを思い出すんです」(広島平和文化センター収録の証言映像)
竹屋国民学校(現中区の竹屋小)5年生で教室で被爆。倒れた校舎からはい出て北方向の下流川町(現中区)の自宅を目指すも火の手に阻まれ、学校東の鶴見橋西詰め付近にたどり着いた。
よく遊んだ比治山に近いなじみの京橋川の光景は一変。西詰め近くは多くの中学生や女学生が建物疎開作業に動員されており、ひどい火傷やけがを負っていた。川に次々と死体が流れてきた。
西詰めは猛火が広がる中心部側にあり、北川さんは泳いで対岸に渡った。疲れを感じてシダレヤナギの下で体を休めると、「無残に枝や葉が折れて散乱していた」(手記)。木造の鶴見橋は懸命な消火で焼失は免れ、比治山方面へ逃げる人が次々と渡った。
シダレヤナギは90年、橋の架け替えに伴ってすぐそばの現在地に移植。樹齢100年を超えた07年に枯死が確認されたが、被爆後に同じ根から生えた幹が今も生きている。北川さんは生前、原爆資料館の証言者としてシダレヤナギの記憶も伝え続けた。その思いを「被爆体験伝承者」が引き継いでいる。(山本真帆)
(2024年9月22日朝刊掲載)
生き残った鶴見橋のシダレヤナギ
北川建次さん(2022年に87歳で死去)は45年8月6日、この木の記憶が深く刻まれた。「あの柳を見るたびに、子どものころや、原爆の落ちたときにあそこを通って『柳が残っているなあ』と思いながら逃げたことを思い出すんです」(広島平和文化センター収録の証言映像)
竹屋国民学校(現中区の竹屋小)5年生で教室で被爆。倒れた校舎からはい出て北方向の下流川町(現中区)の自宅を目指すも火の手に阻まれ、学校東の鶴見橋西詰め付近にたどり着いた。
よく遊んだ比治山に近いなじみの京橋川の光景は一変。西詰め近くは多くの中学生や女学生が建物疎開作業に動員されており、ひどい火傷やけがを負っていた。川に次々と死体が流れてきた。
西詰めは猛火が広がる中心部側にあり、北川さんは泳いで対岸に渡った。疲れを感じてシダレヤナギの下で体を休めると、「無残に枝や葉が折れて散乱していた」(手記)。木造の鶴見橋は懸命な消火で焼失は免れ、比治山方面へ逃げる人が次々と渡った。
シダレヤナギは90年、橋の架け替えに伴ってすぐそばの現在地に移植。樹齢100年を超えた07年に枯死が確認されたが、被爆後に同じ根から生えた幹が今も生きている。北川さんは生前、原爆資料館の証言者としてシダレヤナギの記憶も伝え続けた。その思いを「被爆体験伝承者」が引き継いでいる。(山本真帆)
(2024年9月22日朝刊掲載)
生き残った鶴見橋のシダレヤナギ