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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月25日 安田高女 郊外で再開

 1945年9月25日。安田高等女学校(現広島市中区の安田女子中高)が、2学期の始業式をした。爆心地から約1・4キロ北の校舎を焼失。休校を余儀なくされていたが、郊外の船越国民学校(現安芸区の船越小)の講堂を借り、通知や市内各所への張り紙で授業再開を知らせた。

 「安田学園四十年史」によると、再開直後に登校した生徒は65人で、うち1年生は3人のみ。多くが市中心部の県庁近くの建物疎開作業に動員されて被爆し、犠牲になっていた。

 「学年別に講堂に着席し敬礼 宮城遙拝 国歌奉唱 校長訓話 校歌合唱 敬礼 閉式」。学校法人安田学園に残る当時の校務日誌に始業式の流れが記されている。式後は「生徒全員について現住所 通学種別 家庭状況等の調査をなす」。始業式の翌26日は、合同葬儀を営んだ。

 校長室で被爆して重傷を負った創立者の安田リヨウさんは当初「学園の再建は不可能だと考えておりました」(四十年史)。被爆で失った教職員は13人、生徒は315人に上った。ただ、学校跡で卒業生が泣いているのを知り、彼女たちの母校をなくしてはならないと再建へ動いた。

 当時3年生の梶本淑子さん(93)=西区=は、学校再開の掲示を見た友人に誘われ、船越国民学校に向かった。爆心地から2・3キロの学徒動員先の工場で被爆し、脚のけがや歯茎からの出血で8月中は寝込んでいた。「苦労を共にした友人に会えるのが楽しみだった」。慣れない列車に乗って間借りの学びやに通った。

 9月以降、同じく校舎を失った広島一中(現中区の国泰寺高)なども国民学校の教室を間借りするなどして授業を再開した。どの学校にも、姿の見えない生徒がいた。(山下美波)

(2024年9月25日朝刊掲載)

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