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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月下旬 ガラス片 体に残し帰郷

 1945年9月下旬。当時26歳の遠藤健一さんは広島県北の東城町(現庄原市)の広島第二陸軍病院東城分院を退院し、古里新潟へ鉄路で帰郷の途に就いた。被爆時に受けたガラス片による大けがに急性放射線障害が重なり、1カ月以上入院していた。

 「松葉杖をついてソロソロと歩けるようになった。助かったのだ」。入院中には一時ベッドから起き上がれなかった遠藤さんは、手記「生命の火」で回顧している。

 生家は、新潟市内の刀剣商。新潟鉄道局に勤務時、召集を受けた。45年4月に広島市内の陸軍部隊に配属された後、感染症のパラチフスを患ったため8月6日は基町(現広島市中区)の広島第二陸軍病院に入院していた。

 「強烈な閃光(せんこう)のあと、ジリジリと灼(や)きつくような熱さに思わず両手で顔を覆った」。爆心地の約1キロ北。爆風で割れた窓のガラス片が体中に突き刺さった。壊滅した病院そばに設けられたテント張りの救護所(先月9日付本連載で紹介)で止血の手当てを受けた。

 11日ごろ、東城分院にトラックと列車で移送。周りの患者が内出血の斑点や脱毛などの症状が出て次々と逝く中、白血球が激減していた遠藤さんは「処刑寸前の死刑囚のような心境だった」。「広島原爆戦災誌」(71年)によれば、収容された約300人の9割以上が9月下旬までに死亡した。

 何とか帰郷した後、12月ごろにやっと白血球数がやや回復。後に新潟県原爆被害者の会会長に就き、被爆体験記の収集に努めた。「生命の火」も会の手記集「鳩」(91年刊)に収められている。

 半世紀を過ぎても足や尻に残り、痛みをもたらしたガラス片は98年に手術で摘出した。2006年に86歳で亡くなった後、遺族を通じて原爆資料館に寄贈された。(編集委員・水川恭輔)

(2024年9月26日朝刊掲載)

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