[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月下旬 学術的な記録映画目指す
24年9月27日
1945年9月下旬。東京の日本映画社(日映)が「原爆被災記録映画」の製作スタッフを広島市へと順次送り込んでいた。日映は、国の映画の統制を受け、41年までに新聞・通信社のニュース映画部門や映画製作会社の文化映画部門などが統合されて発足。終戦後もニュース映画を作り、昭和天皇が派遣した永積寅彦侍従の広島市視察(9月3日)なども撮影した。
日映は原爆被害の記録映画の製作を9月上旬に社内で決定。当初から企画に関わった相原秀次さん(本名秀二、2008年に98歳で死去)が残した製作原案が、原爆資料館にある。
原爆被害を学術的に見て世界への「映画に依る報告書」にすると強調。内容を「原子爆弾の使用が戦略爆撃の用具であるか、其(そ)の限度を超えた非人道的用具であったかを実証的に解明する事」などと記す。
相原さんは、8月8日に広島入りして調査をした原子物理学者の仁科芳雄博士に監修を依頼。9月14日に文部省の学術研究会議に「原子爆弾災害調査研究特別委員会」が設けられると、日映は映画製作を担当する補助機関に位置付けられた。
委員会は原爆被害の総合的研究を掲げ、大学や研究機関の約200人による調査を計画。物理学化学地学科、生物学科、土木建築学科、医学科など9科会を組織した。日映はこれにおおむね対応して生物、物理、土木建築、医学、ニュース・遊撃の5撮影班を設け、スチル写真担当の写真家たちを含め計約30人のスタッフを編成した。
5班のうち生物班が最初に東京を出発。9月21日に広島市に着いた。物理班や医学班も月末までに順次到着した。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月27日朝刊掲載)
日映は原爆被害の記録映画の製作を9月上旬に社内で決定。当初から企画に関わった相原秀次さん(本名秀二、2008年に98歳で死去)が残した製作原案が、原爆資料館にある。
原爆被害を学術的に見て世界への「映画に依る報告書」にすると強調。内容を「原子爆弾の使用が戦略爆撃の用具であるか、其(そ)の限度を超えた非人道的用具であったかを実証的に解明する事」などと記す。
相原さんは、8月8日に広島入りして調査をした原子物理学者の仁科芳雄博士に監修を依頼。9月14日に文部省の学術研究会議に「原子爆弾災害調査研究特別委員会」が設けられると、日映は映画製作を担当する補助機関に位置付けられた。
委員会は原爆被害の総合的研究を掲げ、大学や研究機関の約200人による調査を計画。物理学化学地学科、生物学科、土木建築学科、医学科など9科会を組織した。日映はこれにおおむね対応して生物、物理、土木建築、医学、ニュース・遊撃の5撮影班を設け、スチル写真担当の写真家たちを含め計約30人のスタッフを編成した。
5班のうち生物班が最初に東京を出発。9月21日に広島市に着いた。物理班や医学班も月末までに順次到着した。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月27日朝刊掲載)