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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月下旬 縮景園に墓標の立て札

 1945年9月下旬。被爆直後、おびただしい人たちが押し寄せた広島市上流川町の泉邸(現中区の縮景園)の一角に犠牲者が埋葬されていた。爆心地から約1・4キロ北東。朝日新聞東京本社出版局のカメラマンだった松本栄一さんが墓標の立て札を撮影している。

 もともとは、中央に大きな池を配した回遊式の大名庭園。旧広島藩主浅野家の初代長晟が1620年、家老で茶人の上田宗箇に命じて作庭した。1940年に浅野家から広島県に寄付され、同年に国名勝に指定された。

 しかし、風雅な庭園は被爆で一変。大半の樹木は失われ、「襲いくる火炎の轟(ごう)音の中で、園池はたちまち死出の血沼と化した」(71年刊の「広島原爆戦災誌」)。原爆資料館には、水を求める避難者が池の周りを埋め尽くす様子を被爆者が描いた「原爆の絵」が残る。

 「戦死者墓五名」「戦死者之墓三十八名」「戦死者二十一名墓」。松本さんの写真に写る墓標には左からそう書かれ、合わせて64人に上る。県教委が被爆42年後の87年に、写真を手掛かりに現地を発掘すると、数千点の骨片が見つかった。

 遺骨は平和記念公園内の原爆供養塔に納められた。地元町内会などは供養会を結成。88年に縮景園内に慰霊碑を建て、同年から毎夏に供養式を営んでいる。松本さんは初回から、2004年12月に89歳で亡くなる直前の8月まで参列を続けた。

 上幟町北町内会長で供養会副会長の岡部喜久雄さん(75)は亡き祖母から被爆後に泉邸に逃げた体験を聞いた。「慰霊碑を通じてこの地でたくさんの人が亡くなったと知ってほしい」と話す。

 混乱の中、犠牲者の遺骨は多くの負傷者が運ばれた似島(現南区)などにも埋葬された。(編集委員・水川恭輔)

(2024年9月30日朝刊掲載)

埋葬者を示す立て札

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