草の根の10フィート運動 熱意再び 関係者ら座談会 記録映画 被害の実態克明に
24年9月30日
1980年代前半、被爆後の広島と長崎で米戦略爆撃調査団が被害状況を撮影した記録フィルムを市民からの寄付金で買い取り、保存と記録映画の製作につなげる「10フィート運動」が草の根の大きなうねりとなった。当時を振り返る座談会が広島市中区の被爆建物レストハウスであり、海外上映でも大きな反響を得た当時について関係者たちが語った。(金崎由美、新山京子)
広島で運動に深く携わったのが、理論物理学者で広島大平和科学研究センター(当時)の研究員だった永井秀明さん(88)=広島県府中町。フィルムに写る被爆者を割り出して戸別訪問し、記録映画製作のため証言を粘り強く説得した。「病院の協力で患者カルテにも当たり、所在を突き止めた。身をさらすことに抵抗がある人は多く何度も断られた」と述懐した。
82年1月、重度のやけどやけがに苦しむ被災者の米軍映像と約35年後の本人の証言映像で構成する「にんげんをかえせ」に結実する。背中のやけどが重いケロイドになった広島の吉川清さんや長崎の谷口稜曄(すみてる)さんらを映す。
22歳で被爆し、左足を切断した故沼田鈴子さんも永井さんの説得に応じて出演した一人。これを機に証言活動を決意し、被爆アオギリの下で全国からの修学旅行生たちに語り続けることになる。
永井さんは82年5~6月、沼田さんらと3週間かけて欧州と米国、カナダの計14都市で第2作「予言」と合わせた「10フィート映画」の上映会を開催。「被爆者の姿も映像も初めて見るという人ばかり。衝撃を受けたようだった。沼田さんの証言に熱心に耳を傾けていた」と振り返った。
米国を同行取材した元中国新聞記者の中原俊輔さん(77)=広島市西区=も登壇した。米ソ対立が強まっていたものの、欧米では廃絶ではなく「これ以上増やさない」ことを求める「核凍結」が運動の主流だった。だが鑑賞後は「核兵器は完全廃棄を」「広島や長崎の人々の苦しみに罪の気持ちを持った」などの声が上がったという。
40年余り後の現在、核兵器使用の危険性はむしろ高まっている。「核保有国の指導者に核兵器を使ったらどうなるかを直視してほしい」と永井さんは話した。
座談会は市民でつくる「原爆ドームとヒロシマ」実行委員会の主催。出山ひさ子代表(52)=安佐南区=は「当時の盛り上がりと、被爆者たちの熱い思いについて当事者から聞けるのは今しかない。こんな草の根の運動があったことを知ってほしい」と語る。
「目をそらさないで」 役割今なお
10フィート運動は、1978年の第1回国連軍縮特別総会(SSD)に届けようと原爆写真集を出版した「子どもたちに世界に! 被爆の記録を贈る会」の活動が契機となった。米国で写真展を開いたメンバーが米戦略爆撃調査団の元カメラマン、故ハーバート・スッサン氏と出会い、米国立公文書館にフィルムが所蔵されていることを知らされたという。
80年、「10フィート(約3メートル)当たり3千円」のカンパを募って複製フィルムの購入費に充てるべく、全国的な運動が始まった。広島県内では市民、キリスト教関係者や労働組合を横断する活動となり「広島10フィート若者の会」も結成された。83年までに「にんげんをかえせ」(橘祐典監督)「予言」(羽仁進監督)「歴史―核狂乱の時代」(同)が完成。日本映画社(当時)が45~46年に撮影、製作した後、米側に接収された映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」の全編上映にもつなげた。
広島では以前から、過小評価されてきた原爆被害を掘り起こし、その実態を日本国内はもとより国連を通じて世界に知らしめようとする動きが強まっていた。完成した「10フィート映画」を携えての欧米行脚も、82年の第2回SSDに合わせたものだった。
冷戦下の欧州では、米ソの弾道ミサイル配備を巡り緊張が高まっていた時期。「核戦争」への危機感から反核デモが空前の規模で起こり、広島市内でも市民20万人が結集した。第2回SSDに際しては、ニューヨーク市内を100万人がデモ行進。約1億筆の反核署名が国連本部に届けられた。
作中、悲惨な映像は多い。「にんげんをかえせ」ではナレーションをした俳優の大竹しのぶさんが「皆さん、どうか終わりまで、目をそらさないでください」と語る。
原爆を投下した側が爆撃の「効果」を測るため活用したフィルムは、市民の側から原爆の非人道性を告発する作品へと転化した。被爆者で米国上映の旅に参加した日本キリスト教団広島東部教会の隠退牧師、月下美孝さん(81)=東区=は「若い世代に見てもらうべき作品であることは今も変わらない」と力を込める。
(2024年9月30日朝刊掲載)
広島で運動に深く携わったのが、理論物理学者で広島大平和科学研究センター(当時)の研究員だった永井秀明さん(88)=広島県府中町。フィルムに写る被爆者を割り出して戸別訪問し、記録映画製作のため証言を粘り強く説得した。「病院の協力で患者カルテにも当たり、所在を突き止めた。身をさらすことに抵抗がある人は多く何度も断られた」と述懐した。
82年1月、重度のやけどやけがに苦しむ被災者の米軍映像と約35年後の本人の証言映像で構成する「にんげんをかえせ」に結実する。背中のやけどが重いケロイドになった広島の吉川清さんや長崎の谷口稜曄(すみてる)さんらを映す。
22歳で被爆し、左足を切断した故沼田鈴子さんも永井さんの説得に応じて出演した一人。これを機に証言活動を決意し、被爆アオギリの下で全国からの修学旅行生たちに語り続けることになる。
永井さんは82年5~6月、沼田さんらと3週間かけて欧州と米国、カナダの計14都市で第2作「予言」と合わせた「10フィート映画」の上映会を開催。「被爆者の姿も映像も初めて見るという人ばかり。衝撃を受けたようだった。沼田さんの証言に熱心に耳を傾けていた」と振り返った。
米国を同行取材した元中国新聞記者の中原俊輔さん(77)=広島市西区=も登壇した。米ソ対立が強まっていたものの、欧米では廃絶ではなく「これ以上増やさない」ことを求める「核凍結」が運動の主流だった。だが鑑賞後は「核兵器は完全廃棄を」「広島や長崎の人々の苦しみに罪の気持ちを持った」などの声が上がったという。
40年余り後の現在、核兵器使用の危険性はむしろ高まっている。「核保有国の指導者に核兵器を使ったらどうなるかを直視してほしい」と永井さんは話した。
座談会は市民でつくる「原爆ドームとヒロシマ」実行委員会の主催。出山ひさ子代表(52)=安佐南区=は「当時の盛り上がりと、被爆者たちの熱い思いについて当事者から聞けるのは今しかない。こんな草の根の運動があったことを知ってほしい」と語る。
「目をそらさないで」 役割今なお
10フィート運動は、1978年の第1回国連軍縮特別総会(SSD)に届けようと原爆写真集を出版した「子どもたちに世界に! 被爆の記録を贈る会」の活動が契機となった。米国で写真展を開いたメンバーが米戦略爆撃調査団の元カメラマン、故ハーバート・スッサン氏と出会い、米国立公文書館にフィルムが所蔵されていることを知らされたという。
80年、「10フィート(約3メートル)当たり3千円」のカンパを募って複製フィルムの購入費に充てるべく、全国的な運動が始まった。広島県内では市民、キリスト教関係者や労働組合を横断する活動となり「広島10フィート若者の会」も結成された。83年までに「にんげんをかえせ」(橘祐典監督)「予言」(羽仁進監督)「歴史―核狂乱の時代」(同)が完成。日本映画社(当時)が45~46年に撮影、製作した後、米側に接収された映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」の全編上映にもつなげた。
広島では以前から、過小評価されてきた原爆被害を掘り起こし、その実態を日本国内はもとより国連を通じて世界に知らしめようとする動きが強まっていた。完成した「10フィート映画」を携えての欧米行脚も、82年の第2回SSDに合わせたものだった。
冷戦下の欧州では、米ソの弾道ミサイル配備を巡り緊張が高まっていた時期。「核戦争」への危機感から反核デモが空前の規模で起こり、広島市内でも市民20万人が結集した。第2回SSDに際しては、ニューヨーク市内を100万人がデモ行進。約1億筆の反核署名が国連本部に届けられた。
作中、悲惨な映像は多い。「にんげんをかえせ」ではナレーションをした俳優の大竹しのぶさんが「皆さん、どうか終わりまで、目をそらさないでください」と語る。
原爆を投下した側が爆撃の「効果」を測るため活用したフィルムは、市民の側から原爆の非人道性を告発する作品へと転化した。被爆者で米国上映の旅に参加した日本キリスト教団広島東部教会の隠退牧師、月下美孝さん(81)=東区=は「若い世代に見てもらうべき作品であることは今も変わらない」と力を込める。
(2024年9月30日朝刊掲載)