[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月29日 顔大けが2歳 助からず
24年9月29日
1945年9月29日。わずか2歳で原爆に遭った岩本年治ちゃんが、息を引き取った。母と姉2人、兄との5人で暮らしていた広島市東蟹屋町(現東区)の自宅で被爆。顔に大けがを負い、2カ月近くたっても癒えなかった。
「8月6日朝、家族で朝ご飯を食べよったんです。年治は、ちょうど窓の正面におって…」。当時5歳の兄栄造さん(84)=広島県熊野町=は顔を曇らせる。自宅は爆心地の東約3キロ。自身は軽傷だったが、年治ちゃんは爆風で割れた窓ガラスの破片に左目と左耳の間をえぐられ、血が噴き出た。4歳の姉明子さんはガラス片が顔に刺さり出血したが命は助かった。
当時15歳の姉深田ヨシ子さん(2022年に92歳で死去)は、後に2人のけがを記憶を基に描いている。「自分が怪我(けが)をしていれば小さな弟妹助かったのにと心をいためました」と書き添えた。あの朝、年治ちゃんの向かい、窓との間に座っていたが、原爆のさく裂直前に席を外していた。
弟は、母がいなくてもヨシ子さんがいれば泣かないほど懐いていたという。「私のことを『おていちゃん』と言っていたのですが、自分の顔の傷も癒えていないのに『おていちゃん』と言って泣きながら、私にすがっていました」(手記)
栄造さんも「おんぶしてやったのを覚えとる。かわいい子じゃった」としみじみ話す。治療のため、母は郊外の救護所にも抱いて連れて行った。そのかいもなかった。
市の原爆被爆者動態調査の報告書(12年度末時点)によれば、名前と年齢のいずれも分かっている45年末までの犠牲者6万2410人のうち、ゼロ歳から9歳までの子どもは約12%の7714人に上った。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月29日朝刊掲載)
「8月6日朝、家族で朝ご飯を食べよったんです。年治は、ちょうど窓の正面におって…」。当時5歳の兄栄造さん(84)=広島県熊野町=は顔を曇らせる。自宅は爆心地の東約3キロ。自身は軽傷だったが、年治ちゃんは爆風で割れた窓ガラスの破片に左目と左耳の間をえぐられ、血が噴き出た。4歳の姉明子さんはガラス片が顔に刺さり出血したが命は助かった。
当時15歳の姉深田ヨシ子さん(2022年に92歳で死去)は、後に2人のけがを記憶を基に描いている。「自分が怪我(けが)をしていれば小さな弟妹助かったのにと心をいためました」と書き添えた。あの朝、年治ちゃんの向かい、窓との間に座っていたが、原爆のさく裂直前に席を外していた。
弟は、母がいなくてもヨシ子さんがいれば泣かないほど懐いていたという。「私のことを『おていちゃん』と言っていたのですが、自分の顔の傷も癒えていないのに『おていちゃん』と言って泣きながら、私にすがっていました」(手記)
栄造さんも「おんぶしてやったのを覚えとる。かわいい子じゃった」としみじみ話す。治療のため、母は郊外の救護所にも抱いて連れて行った。そのかいもなかった。
市の原爆被爆者動態調査の報告書(12年度末時点)によれば、名前と年齢のいずれも分かっている45年末までの犠牲者6万2410人のうち、ゼロ歳から9歳までの子どもは約12%の7714人に上った。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月29日朝刊掲載)