この人の〝反核〟 <8> いわさきちひろ(画家・絵本作家、1918~74年)
24年9月30日
子どもの姿に思い託して
愛らしさに宿る告発の力
例えば、母の手でふかふかのタオルにくるまれた湯上がりの赤ちゃん。子どもの幸せの表情を描かせて、いわさきちひろの右に出る人は思い浮かばない。
命のささやきのような淡い色、柔らかい線。版を重ねる画集や絵本を通じ、没後50年となる今もファンを増やし続けている。絵からあふれ出す子どもの愛らしさは、万国の人に伝わる普遍の美でもある。
病により55歳で閉じた生涯の晩年、3冊の「戦争絵本」を描いた。1967年の「わたしがちいさかったときに」、72年の「母さんはおるす」、73年の「戦火のなかの子どもたち」。いずれも子どもが主人公だ。最初の「わたしが―」は、広島の少年少女の原爆体験記を教育学者の長田新が募り、編集した「原爆の子」の絵本化に挑んだ一冊である。
ちひろはその取材のため、67年5月、版元の編集者と東京から初めて広島を訪れた。スケッチブックと愛用のカメラを携えて。広島での案内役は、絵本「おこりじぞう」の文で知られる作家の山口勇子が務めた。
広島市出身で東京のちひろ美術館学芸員、長野の安曇野ちひろ美術館副館長を務めた竹迫祐子さん(68)は、ちひろの広島での足跡を調べてきた。竹迫さんによると、滞在は2泊3日とみられ、広島で描いたスケッチは7枚、写真は4枚。「他の取材旅行と比べて極端に少ない」と話す。
そのスケッチにしても、平和記念公園(中区)で原爆ドームの頂部の鉄骨を描いた1点以外は、市街地から見える山を描いたものなど。写真も公園内の「原爆の子の像」が1枚あるが、あとは相生橋の古い親柱を撮ったカットが1枚、市街地遠望が2枚という乏しさだ。
同行者の回想によると、ちひろは到着初日に可部(安佐北区)の知人を訪ねた後、爆心地に近いホテルに入ったが、「この床の下にも子どもたちの骨があるのよね」と眠れない様子だった。
翌日、市内の被爆遺構を巡るが言葉少なく、予定していた原爆資料館の取材は固辞した。案内した山口たちとの間に、気まずい空気が流れたという。その晩の宿泊は宮島(廿日市市)に変更し、そのまま広島を離れた。
現地取材は不調に終わったかに思える絵本。しかし、完成作について竹迫さんは「ちひろの創作歴の中でも画期をなす重要な一冊」と評価する。「この本の経験と手応えが、ベトナム戦争を扱った次の2冊の表現にもつながったと思う」
どれほど悲惨な光景をつづった手記の挿絵でも、ちひろは子どもをひたすら愛らしく描いている。悲しみでうつろな目をした子もいるが、焼けただれた皮膚の描写などはない。それ故に、かえって告発の力を帯びる。原爆が、戦争が、大人が奪った子どもの幸せが、どれほどかけがえのないものか―。
広島市街から「変わりはてた姿」で三入村(現安佐北区)まで歩いて帰ってきて、ひと月後に亡くなる8歳の妹のことを書いた姉の手記のページ。ちひろは画中で、とぼとぼと歩いてくるその子をたくさんの野の花で迎えた。
戦後、絵の道に生きる決意を胸に、ちひろが疎開先の長野から上京したのは46年春だった。復興が緒に就いたばかりの東京で、のちに「原爆の図」で知られる丸木位里・俊の夫妻が主宰するデッサン会に参加。当時の新聞のカットなどに残るちひろの素描は、俊の影響が強くうかがえる。
夫妻との親交は60年代初めまで続いた。15部ある「原爆の図」の大半、11部までが描かれた時代と重なる。原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)の岡村幸宣(ゆきのり)学芸員は「被爆の惨状を知る丸木夫妻から、さまざまに話を聞いていたのは間違いない。『原爆の図』には、もしかするとちひろが手伝ったかと思えるタッチの部分もある」と言う。
ちひろは「わたしがちいさかったときに」の制作に際し、「丸木さんたちのようには描けないけれど」と語りつつ、熱意と使命感をあらわにしたという。広島での逸話は、ちひろの繊細さを示すようで、あるいは自信の証しかもしれない。にわかに取材せずとも描き出せる「ちひろのヒロシマ」が、あの子どもの姿で心に発酵していたように思える。(道面雅量)
いわさきちひろ
福井県で生まれ、東京で育つ。本名(旧姓)岩崎知弘。20代で最初の結婚と旧満州(中国東北部)での生活を経験。戻った東京の実家を空襲で失い、長野県の母の実家で終戦を迎えた。戦後は東京で創作に励み、再婚。一人息子の子育ての傍ら、数々の名作絵本を世に送った。写真は、ちひろ美術館提供。
(2024年9月28日朝刊掲載)