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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月上旬 島病院跡に玄関の残骸

 1945年10月上旬。爆心直下の島病院(現広島市中区の島内科医院)の跡に、れんが造り2階建ての玄関付近の残骸があった。原爆投下前、広島郵便局などが立ち並んでいた細工町の一角。院長で外科医の島薫さん(77年に79歳で死去)が33年に開業し、病室はいつも満室だったという。

 島さんの83年発行の回想録によると、45年8月6日は手術のため広島県甲山町(現世羅町)に出かけていた。市内は大火災で、病院跡にたどり着けたのは7日午後。「崩れ落ちたレンガの余熱と死臭…ほかに何もなかった」

 鉄筋の校舎が焼け残った袋町国民学校(現袋町小)の臨時救護所で、負傷者の治療に当たった。病院跡付近の伝言板では「島病院 入院通院患者 付添看護婦家人 病院関係者 住所姓名を御記入下さい 生死消息を御記入下さい 住所 西署(三篠信用組合)内 島薫」と呼びかけた。

 当時10歳で疎開先にいて助かった長男の一秀さん(90)は「父は自分だけ生き残ったという思いがずっとあったと思う。なんとか消息をつかみたかったはず」と話す。

 願いむなしく、病院にいた約80人は全員死亡した。跡には白骨が散乱し、金歯で分かった婦長以外は誰の遺骨か特定できなかったという。一秀さんの妻直子さん(81)は後に義父が涙して、こう話すのを聞いた。「8月になったら休みが欲しいと頼むお手伝いさんに、うちも忙しいけ、盆にしてくれと言ったばかりに死んでしもうた」

 島病院の廃虚や伝言板は、林重男さん(2002年に84歳で死去)によって10月1日から10日までの間に写真に記録されている。「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の活動を収める日本映画社の映画製作で、「物理班」のスチル写真撮影を担当した。(山本真帆)

(2024年10月1日朝刊掲載)

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