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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月上旬 壊滅の天神町 遺族悲嘆

 1945年10月上旬。今の平和記念公園(広島市中区)の東南部分、天神町北組は壊滅し灰じんに帰していた。爆心地の西南約200メートルから約400メートルの元安川沿い。在りし日は、南北に走る通り「天神町筋」に木造の店や家がひしめき合っていた。

 「母と、愛する兄二人を同時に失った事実は到底一生忘れることが出来ない」。当時22歳の米田博さんは9月25日、家族への尽きぬ思いを日記に書いていた。天神町筋に実家の米田京染店があった。

 当時、東京帝国大(現東京大)の学生。下宿先で知り合った後の妻との婚約の許しを得るため7月20日、母や兄が暮らす実家に帰省した。下宿に戻ってから1週間後の8月6日、原爆が投下された。

 母道代さん=当時(60)=は「台所にて丸焼」、兄の吉清さん=同(38)=と秀三さん=同(35)=は「屍体(したい)不明」―。26日に義姉の手紙で家族の死を知らされ「泣けるだけ泣いた」(同日の日記)。

 8月末に再び帰郷。親族が実家の焼け跡を掘り、吉清さんのきせると、兄2人とみられる遺骨を見つけていた。亡き母は空襲に備えて食器を穴に入れて埋めていた。「僕と僕のお嫁さんの為(ため)に、母が楽しみにしてすこしづつ買いそろえておいてくれたコーヒーセット等でした」(31日に下宿先に宛てた手紙)

 米田さんは後に日記や手紙を書き写し、原爆への心情を伝える原稿をまとめた。2018年に95歳で亡くなった後に遺族から寄贈された原稿が原爆資料館に残る。

 米田京染店近くの天神町筋の一角を市が18年に発掘調査し、地下約60センチから焼けた建物の跡や通りのアスファルトが見つかった。22年から現地の被爆遺構展示館で公開されている。(編集委員・水川恭輔)

(2024年10月2日朝刊掲載)

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