[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月4日 おんぶの兄弟 痛々しく
24年10月4日
1945年10月4日。「原爆被災記録映画」の製作のため、広島市内で撮影を続けていた日本映画社(日映)のスタッフが、おんぶして歩く兄弟をカメラに収めた。兄の背中からつぶらな瞳を向ける幼い弟は、頭から頰にかけての包帯が痛々しい。
当時3歳の竹本秀雄さん(82)=呉市=は2年前、東広島市であった平和集会で、「あれは僕」と名乗り出た。当時11歳の兄定男さんに背負われていた。「あんちゃんがおらんかったら僕はここにおりません」
被爆前、広島市大手町(現中区)で両親と兄、姉2人と暮らしていた。8月6日、爆心地から約1キロの自宅は爆風で倒壊。竹本さんは下敷きになり、周囲から炎が迫る中、兄に助け出された。
ただ、学徒動員に出た上の姉君江さん=当時(13)=の行方が分からなくなった。似島(現南区)に運ばれたと人づてに聞いた両親が8月29日に捜しに渡った。「お父ちゃん、お母ちゃん」と呼ぶ声で見つけ、連れ帰るが、翌30日に逝った。
竹本さん自身は、左頰に骨が見えるほどの傷を負った。撮影された時は幼く、記憶はない。「傷の治療を受けていたんでしょう」。広島赤十字病院(現中区)が日映の撮影拠点の一つだったため、病院との道中とみられる。傷痕は消えずケロイドとなり、19歳の時に切除手術を受けた。救ってくれた兄は交通事故のため23歳で亡くなった。
数十年前、日映の映像を見た義兄から教えられて自分が写っていると知ったが、親しい人以外には打ち明けていなかった。原水爆禁止運動に熱心な親友に背中を押されたのが、証言を始めるきっかけになった。(山本真帆)
(2024年10月4日朝刊掲載)
当時3歳の竹本秀雄さん(82)=呉市=は2年前、東広島市であった平和集会で、「あれは僕」と名乗り出た。当時11歳の兄定男さんに背負われていた。「あんちゃんがおらんかったら僕はここにおりません」
被爆前、広島市大手町(現中区)で両親と兄、姉2人と暮らしていた。8月6日、爆心地から約1キロの自宅は爆風で倒壊。竹本さんは下敷きになり、周囲から炎が迫る中、兄に助け出された。
ただ、学徒動員に出た上の姉君江さん=当時(13)=の行方が分からなくなった。似島(現南区)に運ばれたと人づてに聞いた両親が8月29日に捜しに渡った。「お父ちゃん、お母ちゃん」と呼ぶ声で見つけ、連れ帰るが、翌30日に逝った。
竹本さん自身は、左頰に骨が見えるほどの傷を負った。撮影された時は幼く、記憶はない。「傷の治療を受けていたんでしょう」。広島赤十字病院(現中区)が日映の撮影拠点の一つだったため、病院との道中とみられる。傷痕は消えずケロイドとなり、19歳の時に切除手術を受けた。救ってくれた兄は交通事故のため23歳で亡くなった。
数十年前、日映の映像を見た義兄から教えられて自分が写っていると知ったが、親しい人以外には打ち明けていなかった。原水爆禁止運動に熱心な親友に背中を押されたのが、証言を始めるきっかけになった。(山本真帆)
(2024年10月4日朝刊掲載)