声 セミパラチンスクからヒロシマへ <上> 障害者リハビリセンター 健康被害への恐怖 今も
24年10月7日
「核影響の地」で自立支援
カザフスタン北東部。旧セミパラチンスク核実験場に隣接するベスカラガイ地区へ車を走らせた。車窓には草原が広がり、放牧された牛や馬が悠然と歩く。ぽつぽつと平屋の住宅が立つ集落に障害者リハビリセンターはあった。
建物の正面に「進めカザフスタン!」との意味の字をかたどった装飾が施されていた。センター長のガリヤ・バイカダモワさん(58)の案内で中に入ると、約10人の子どもたちが迎えてくれた。
3-97歳の297人
センターは2012年に設立された。通所・訪問で利用しているのは3~97歳の297人。大半にまひなどの身体障害や知的障害がある。歯磨きや着替えといった日常動作の訓練を受け、学習やグループ活動の時間もあるという。
四国の広さに相当する旧セミパラチンスク核実験場。1962年まで地上、空中実験が繰り返され、その後、89年まで地下実験が続けられた。周辺住民にはがんや白血病が多発。障害のある子の出産も相次いだ。被害者は膨大な数に上るとみられている。
バイカダモワさんは93年、53歳だった母をがんで亡くした。実験場の閉鎖宣言の2年後だった。バイカダモワさん自身も地下実験による揺れを体験した。自らを「被害者」と考えている。
地区の保育園で園長も務めた彼女の周りには、病気に苦しむ子どもが多くいた。障害のあるわが子を隠す親もいた。
旧ソ連時代のような収容施設ではなく、障害のある子が社会の中で学べる場を―。彼女の熱意が東カザフスタン州(当時)の知事らを動かし、センターの設立につながった。「まず親が諦めないことが大事」。わが子が2歳の時、病で生死をさまよった経験も彼女の信念を強くした。
広島、長崎原爆による遺伝的影響は、過去の調査では確定していない。長期にわたって低いレベルの放射線を浴び続けたセミパラチンスクの被害者の影響も解明されてはいない。
一方、センターの利用者には、州の委員会で実験の影響が大きいと認められた人もいる。フラフープを披露してくれた「第4世代」のレイラ・クゥルマンベコバさん(9)もその一人。以前は他人を拒んでいたが、センターで学んだダンスが彼女の心を溶かしたという。
「実験と障害の関係を否定できない。核実験の影響を大きく受けた地だからこそ、障害児とその親を支える場所が必要なんです」。バイカダモワさんは口調を強めた。
厳しい施設運営
センターの運営はしかし、綱渡りだ。1日往復100キロ以上も走る送迎用バスはバリアフリー仕様ではない。州予算では歩行訓練用の機器も購入できない。
同国では「核被害者の社会的保護法」に基づき、被害者に補償金や年金が給付されているが、特に医療分野は日本の被爆者援護ほど充実していない。健康被害におびえる暮らしに終わりは見えない。住民に対する継続的な心のケアも必須だろう。
「核による被害と、どう闘っていけばいいのでしょうか」。バイカダモワさんは取材する私たちを真っすぐ見つめた。「ヒロシマの経験が必要です。助けてください。教えてください」
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この連載はジャーナリスト小山美砂、本紙映像担当記者の山田尚弘が担当します。取材には広島市の市民団体「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」の協力を得ました。
小山美砂(こやま・みさ)
1994年生まれ、大阪市出身。毎日新聞記者を経て2023年からフリー。著書「『黒い雨』訴訟」(集英社新書)で日本ジャーナリスト会議(JCJ)の第66回JCJ賞。広島市在住。
(2024年10月7日朝刊掲載)