[考 fromヒロシマ] 「風船爆弾」に今学ぶべきこと 元学徒岡田さん 「やらされた」で済ませない
24年10月7日
第2次大戦中、旧日本軍が秘密裏に開発した「風船爆弾」。日本から偏西風に乗せ米本土を攻撃する無人兵器の製造には、大久野島(竹原市)など各地で女学生らが動員された。近年この史実を題材に書籍が刊行されるなど関心は高まる。敗戦時の処分で公的記録がほぼ存在しない中、体験を語り続ける元学徒もいる。1944年11月、最初に米本土に向け放たれてから80年。私たちは歴史に何を学ぶべきか考える。(森田裕美)
三原市の画家岡田黎子さん(95)は戦時下の体験を墨絵にし、若い世代に語り続けてきた。「歴史に学ばないと人は被害者にも加害者にもなり得る」との思いからだ。
忠海高等女学校(現忠海高)2年生だった44年11月から翌年8月の敗戦まで、旧日本軍の毒ガス製造工場があった大久野島に動員され、毒物の運搬や風船爆弾の気球部分の製造に当たった。気球部分はこんにゃくのりで貼り合わせた和紙製。旧満州や国内各地で女学生たちが動員されていた。
29年から敗戦近くまで国際法が禁じた毒ガスを製造し「地図から消された島」でもあった大久野島は機密性が高く、風船爆弾製造にも適していたのだろう。岡田さんも「島でのことは家族といえども話してはならぬ」ときつく口止めされた。
工程ごと班に分けられ、最初の班が和紙5枚を貼り合わせ原紙を作ると次の班が傷や弱い部分をチェック。岡田さんの班は、印がついた所を補修した。続いて断片を球になるよう接合したが、「冬に冷たい床に座って朝から晩まで氷のようなこんにゃくのりを貼るのは本当につらかった」と振り返る。指を反らして密着させる作業で岡田さんは監督の中尉によく怒られた。「反らない私の指を中尉に無理やり曲げたりされて…」
ある日この中尉が、風船爆弾の仕組みを内緒で教えてくれた。子ども心に「風任せなんてばかみたい」と思ったという。
ところが、風船爆弾は一部が米本土に到達し犠牲者を出していたと、戦後40年たって知る。「私のしたことは紛れもない殺人行為だった…」
反省を胸に89年、自らの体験を英訳付きの画集にまとめ自費出版。米の犠牲者遺族や中国で毒ガスの被害に遭った人たちに届けた。敗戦後の広島で負傷者救護に当たった被爆体験も加えて続編も作った。だが戦争加害を語る岡田さんは同じ学徒からも非難された。「当時は仕方なかった」「やらされたのだ」と。
「実態を認め反省し、主体的に判断することこそ戦争をなくすことにつながるのに」と岡田さん。それは今の私たちにも問われている。「問題意識を持って世の中を見極めて。うっかりしていたら知らずに殺し合いに加担することになる」
「女の子たち風船爆弾をつくる」=文芸春秋=は、東京で風船爆弾づくりに携わった女学生の戦争を描いた長編小説だ。膨大な資料や証言に即し、複数の少女の1935年から今に至る日々をコラージュのごとく描く。著者は、核など「見えないもの」を作品にしてきた作家小林エリカさん(46)。長い時間をかけて史実を調べ「歴史は一人一人がつくるもの」と感じたという。
執筆の契機の一つは、戦中に東京宝塚劇場で女学生が風船爆弾を作ったという話を偶然母親から聞いたこと。東京で生まれ育った小林さんにはなじみ深い場所なのに「なぜ風船爆弾の歴史は伝わっていないのか」疑問に思った。
もう一つは7年前。討論会が縁で広島の被爆者で女性史家の加納実紀代さんら女性史の仕事に触れた。空襲体験の聞き取りで「せめて死ぬなら月経でないときがいい」といった記述と出合う。「戦争や核の歴史を語る時、そこは男性の名で埋め尽くされる。でも『大きな歴史』が書き留めないディテールこそ重要」
だがいざ調べ始めると公的な資料はほぼない。一方「私的な記録や資料を残し託してくれる人がいました」。聞き取りもし、記憶の断片を集めた。「誰かが残さないと、いとも簡単になかったことにされる出来事がある。歴史って一人一人がつくるんだと実感しました」
本書では作業でしもやけになり、時には眠気防止の覚醒剤らしき薬を与えられもした少女たちの詳細を描く。国民服に憧れの校章を刺しゅうしたり、にきびや月経を気にしたりする姿も。等身大の人間が加害に巻き込まれていくさまを可視化した。「わたし」「わたしたち」という主体を繰り返し登場させ、個と国家との関係性も問う。
小林さんは言う。「小説は自分が書いたというより『預かった』という気持ち。無数の小さな声を心に留めたい」
開発拠点 資料館に
「ふ」号作戦と呼ばれた風船爆弾開発の拠点は、毒物研究や偽札製造など「秘密戦」を担った旧陸軍登戸研究所。明治大生田キャンパス(川崎市)の同大平和教育登戸研究所資料館は、実験棟だった建物を活用し、歴史の暗部を伝えている。
「決戦兵器」とされた風船爆弾の仕組みや開発史、作戦概要を紹介。当初は対人細菌兵器や、家畜を殺傷する牛疫ウイルスの搭載が計画されたことなども解説する。11月20日~来年5月31日には企画展「風船爆弾作戦と本土決戦準備 女の子たちの戦争」を開く。
風船爆弾
直径約10メートルの気球に水素ガスを詰め爆弾や高度維持装置を装着。1944~45年、福島県勿来など3基地から9千発以上が放たれ、少なくとも300発以上が米本土に到達。一部で山火事を起こしたほか、長崎原爆のプルトニウムを製造したハンフォード核施設周辺に落下し一時操業を停止させた。オレゴン州では妊婦と子ども6人が犠牲になった。
(2024年10月7日朝刊掲載)
三原市の画家岡田黎子さん(95)は戦時下の体験を墨絵にし、若い世代に語り続けてきた。「歴史に学ばないと人は被害者にも加害者にもなり得る」との思いからだ。
忠海高等女学校(現忠海高)2年生だった44年11月から翌年8月の敗戦まで、旧日本軍の毒ガス製造工場があった大久野島に動員され、毒物の運搬や風船爆弾の気球部分の製造に当たった。気球部分はこんにゃくのりで貼り合わせた和紙製。旧満州や国内各地で女学生たちが動員されていた。
29年から敗戦近くまで国際法が禁じた毒ガスを製造し「地図から消された島」でもあった大久野島は機密性が高く、風船爆弾製造にも適していたのだろう。岡田さんも「島でのことは家族といえども話してはならぬ」ときつく口止めされた。
工程ごと班に分けられ、最初の班が和紙5枚を貼り合わせ原紙を作ると次の班が傷や弱い部分をチェック。岡田さんの班は、印がついた所を補修した。続いて断片を球になるよう接合したが、「冬に冷たい床に座って朝から晩まで氷のようなこんにゃくのりを貼るのは本当につらかった」と振り返る。指を反らして密着させる作業で岡田さんは監督の中尉によく怒られた。「反らない私の指を中尉に無理やり曲げたりされて…」
ある日この中尉が、風船爆弾の仕組みを内緒で教えてくれた。子ども心に「風任せなんてばかみたい」と思ったという。
ところが、風船爆弾は一部が米本土に到達し犠牲者を出していたと、戦後40年たって知る。「私のしたことは紛れもない殺人行為だった…」
反省を胸に89年、自らの体験を英訳付きの画集にまとめ自費出版。米の犠牲者遺族や中国で毒ガスの被害に遭った人たちに届けた。敗戦後の広島で負傷者救護に当たった被爆体験も加えて続編も作った。だが戦争加害を語る岡田さんは同じ学徒からも非難された。「当時は仕方なかった」「やらされたのだ」と。
「実態を認め反省し、主体的に判断することこそ戦争をなくすことにつながるのに」と岡田さん。それは今の私たちにも問われている。「問題意識を持って世の中を見極めて。うっかりしていたら知らずに殺し合いに加担することになる」
歴史は一人一人がつくる 作家小林エリカさん
「女の子たち風船爆弾をつくる」=文芸春秋=は、東京で風船爆弾づくりに携わった女学生の戦争を描いた長編小説だ。膨大な資料や証言に即し、複数の少女の1935年から今に至る日々をコラージュのごとく描く。著者は、核など「見えないもの」を作品にしてきた作家小林エリカさん(46)。長い時間をかけて史実を調べ「歴史は一人一人がつくるもの」と感じたという。
執筆の契機の一つは、戦中に東京宝塚劇場で女学生が風船爆弾を作ったという話を偶然母親から聞いたこと。東京で生まれ育った小林さんにはなじみ深い場所なのに「なぜ風船爆弾の歴史は伝わっていないのか」疑問に思った。
もう一つは7年前。討論会が縁で広島の被爆者で女性史家の加納実紀代さんら女性史の仕事に触れた。空襲体験の聞き取りで「せめて死ぬなら月経でないときがいい」といった記述と出合う。「戦争や核の歴史を語る時、そこは男性の名で埋め尽くされる。でも『大きな歴史』が書き留めないディテールこそ重要」
だがいざ調べ始めると公的な資料はほぼない。一方「私的な記録や資料を残し託してくれる人がいました」。聞き取りもし、記憶の断片を集めた。「誰かが残さないと、いとも簡単になかったことにされる出来事がある。歴史って一人一人がつくるんだと実感しました」
本書では作業でしもやけになり、時には眠気防止の覚醒剤らしき薬を与えられもした少女たちの詳細を描く。国民服に憧れの校章を刺しゅうしたり、にきびや月経を気にしたりする姿も。等身大の人間が加害に巻き込まれていくさまを可視化した。「わたし」「わたしたち」という主体を繰り返し登場させ、個と国家との関係性も問う。
小林さんは言う。「小説は自分が書いたというより『預かった』という気持ち。無数の小さな声を心に留めたい」
開発拠点 資料館に
「ふ」号作戦と呼ばれた風船爆弾開発の拠点は、毒物研究や偽札製造など「秘密戦」を担った旧陸軍登戸研究所。明治大生田キャンパス(川崎市)の同大平和教育登戸研究所資料館は、実験棟だった建物を活用し、歴史の暗部を伝えている。
「決戦兵器」とされた風船爆弾の仕組みや開発史、作戦概要を紹介。当初は対人細菌兵器や、家畜を殺傷する牛疫ウイルスの搭載が計画されたことなども解説する。11月20日~来年5月31日には企画展「風船爆弾作戦と本土決戦準備 女の子たちの戦争」を開く。
風船爆弾
直径約10メートルの気球に水素ガスを詰め爆弾や高度維持装置を装着。1944~45年、福島県勿来など3基地から9千発以上が放たれ、少なくとも300発以上が米本土に到達。一部で山火事を起こしたほか、長崎原爆のプルトニウムを製造したハンフォード核施設周辺に落下し一時操業を停止させた。オレゴン州では妊婦と子ども6人が犠牲になった。
(2024年10月7日朝刊掲載)