ガザとヒロシマ 戦闘開始1年 <中> ヒロシマからの訴え
24年10月5日
支援や抗議 模索する市民
9000キロ先 惨状わがことに
パレスチナ自治区ガザから、9千キロ離れた広島。距離は遠くとも、惨事をわがこととして引き寄せ、自分にできることを模索する市民がいる。
市街地に立ち上る煙、憔悴(しょうすい)した顔で支援を乞う人々…。広島市中区のライター大須賀あいさん(42)のスマートフォンに、ガザから届いた写真と動画が保存されている。送信者は中部デールバラハで避難生活を送るシャイマさん(25)。大須賀さんは毎月100ドルをインターネットの決済サービス経由で送金している。
「食べ物も飲み物もない。生き延びるためお金を送ってほしい」。交流サイト(SNS)に英語のメッセージが突然届いたのは4月だった。「SNSを使った詐欺だろうか」。疑っていると1カ月後にまたメッセージを受信。ビデオ通話に応じると、「灰色」に染まったガザの街並みがスマホ画面に映し出された。
絶対生きていて
シャイマさんは身分証明書も提示してくれた。その頃、ガザ市民からの寄付の求めがSNS上で広がっていることも知り、詐欺ではないと信じることにした。
送金すると、毎日のようにメッセージが届き始めた。ビデオ通話は戦場からのテレビ中継のようだ。自宅を爆撃され、1歳半の長男が犠牲になったという。次男は戦闘開始の直前に生まれた。ときに海水を飲み水にするほど困窮している。
「粉ミルクが買えたよ」。シャイマさんからは、感謝の言葉とともに物資の写真がSNSで送られてくる。だが「死はいつも目の前にある」「生きることに疲れた」とも。
国際情勢というあまりに壮大な課題に、広島在住の個人がどれほど力になれるか分からない。胸がつぶれる思いになりながら、大須賀さんは伝える。「戦争が終わったら必ず会おう。その時まで絶対生きていて」
買い物客や旅行者が行き交う広島市中区本通。毎週金曜の夕方、自営業奥田圭さん(63)=庄原市=は「虐殺やめろ」などと記したプラカードを1時間半ほど掲げて立つ。
きっかけは、ガザの惨状に心を痛めていた昨年11月末にSNSで見つけた写真だ。がれきの街と化したガザで、イスラエル兵が「戦果」を誇るように多様な性を象徴する「レインボーフラッグ」を掲げていた。「パレスチナ人への人権侵害を覆い隠している」。トランスジェンダー女性の奥田さんは、自分たちが攻撃の正当化に利用されたように思い、怒りに震えた。
街角から届ける
当初は有志が広島市内に集う抗議活動に参加していた。「より多くの人の目に留まり、関心を持ってもらえるように」と6月からは庄原市役所前と広島市内の市街地で週1回ずつ、プラカードを手に1人で立つ。緊張する心を静め、勇気を振り絞る。「SNSで発信すると、ガザから『私たちのためにありがとう』、日本国内からは『私もスタンディングをします』とメッセージが届く」。本当は、一人じゃない。
「ヒロシマもパレスチナも、ともに大勢の市民が命を奪われ、終わりの見えない被害の中にいる。声を上げなければ」と奥田さん。被爆地の街角から、訴えを足元と世界に届けることを諦めない。(小林可奈、頼金育美)
(2024年10月5日朝刊掲載)