×

ニュース

[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月5~7日 鉄筋の校舎で治療続く

 1945年10月5~7日ごろ。袋町国民学校(現広島市中区の袋町小)の鉄筋の西校舎でなおも被爆者の治療が続いていた。ハエよけの蚊帳をつるした教室に重傷者を収容。女性医師の大田萩枝さん(2018年に96歳で死去)が、外来患者の手当てを担った。

 市中心部で倒壊を免れた西校舎は原爆投下直後に臨時救護所になった。8月17日に救護に入った三原保健所長で医師の沖田昌雪さん(84年に77歳で死去)は、同日に約350人が収容されていたと手記で伝える。

 「負傷者は全身被爆火傷等で目も当てられない位、教室の床の上にギッシリとゴロ寝の状況」。収容者は次々亡くなり、運動場で火葬された。

 広島県立病院の眼科に勤めていた大田さんは9月から袋町国民学校での救護を命じられた。その前は繁華街にあった日本勧業銀行広島支店に詰め、手の施しようがなく亡くなった人の診断書を連日書いていた。

 10月ごろには「普通の怪我(けが)や少し治った患者が郊外から帰ってきてました」(後の座談会)。自身も牛田町(現東区)の自宅で出勤前に被爆。白血球は減り、不調を押して治療に当たっていた。

 10月5日には、戦時災害保護法に基づく戦災から2カ月間の救急救護期間が終わった。「広島原爆医療史」(61年刊)によれば、被爆直後に53カ所あった救護所は同日で11カ所に。合わせて入院479人、外来1248人の患者がいたが、同法に基づく無料の医療提供はなくなった。

 県は代わりに救護所を国民医療法に基づく「日本医療団病院」に再編。自己負担が必要になり、困窮する患者は市町村が保護した。(編集委員・水川恭輔)

(2024年10月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ