[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月上旬 校舎の壁に悲痛な伝言
24年10月8日
1945年10月上旬。袋町国民学校(現広島市中区の袋町小)の校舎の壁には、家族の消息を尋ねたり、居場所を知らせたりする伝言が書かれていた。「御通知ヲ乞フ」「治療所デ治療ヲ受ケテヰマス」…。原爆被災記録映画の製作で写真を担当した菊池俊吉さんが撮影している。
その中に、三好茂さん(80年に76歳で死去)が高等科1年だった次女登喜子さん=当時(13)=の担任へ向けた悲痛な報告もあった。「三好登喜子 奥海田国民学校デ死亡致シマシタ 父三好茂」
三好さんは爆心地近く、今は平和記念公園になった材木町に妻と子ども5人の7人で暮らしていた。8月6日、自身は勤めに出ていて助かったが、妊娠中の妻は自宅の焼け跡で遺骨となって見つかった。
子どもたちは安否不明に。9日、登喜子さんの居場所が人づてに分かった。市中心部の建物疎開作業に動員されて被爆し、奥海田国民学校(現海田町の海田東小)に収容されていた。
「ほんとに、ほんとに嬉(うれ)しかった(略)日頃からやせぎすの登喜子さん背中と腹がくっついて居る様ペッシャンコだが気は確かだ」(77年刊の「被爆体験・私の訴えたいこと」収録の手記)。後ろ頭にはガラス片が食い込み、セーラー服は血で固まっていた。
三好さんは夜を徹して看病。「桃が食べたい」という娘のために親戚に持って来てもらった。「お父さん、水が欲しい」と言われるとやかんで飲ませた。しかし、次第に手指の色が紫に変わり、14日に息を引き取った。
三好さんは近くの山中で娘を荼毘(だび)に付した。「思いきり泣いて泣いて涙の止まる迄(まで)泣いた。なんで自分も死ななかったかと」。9~3歳の長男、三女、四女は遺骨も見つからず、妻子5人を失った。長女は一命を取り留めた。(編集委員・水川恭輔)
(2024年10月8日朝刊掲載)
その中に、三好茂さん(80年に76歳で死去)が高等科1年だった次女登喜子さん=当時(13)=の担任へ向けた悲痛な報告もあった。「三好登喜子 奥海田国民学校デ死亡致シマシタ 父三好茂」
三好さんは爆心地近く、今は平和記念公園になった材木町に妻と子ども5人の7人で暮らしていた。8月6日、自身は勤めに出ていて助かったが、妊娠中の妻は自宅の焼け跡で遺骨となって見つかった。
子どもたちは安否不明に。9日、登喜子さんの居場所が人づてに分かった。市中心部の建物疎開作業に動員されて被爆し、奥海田国民学校(現海田町の海田東小)に収容されていた。
「ほんとに、ほんとに嬉(うれ)しかった(略)日頃からやせぎすの登喜子さん背中と腹がくっついて居る様ペッシャンコだが気は確かだ」(77年刊の「被爆体験・私の訴えたいこと」収録の手記)。後ろ頭にはガラス片が食い込み、セーラー服は血で固まっていた。
三好さんは夜を徹して看病。「桃が食べたい」という娘のために親戚に持って来てもらった。「お父さん、水が欲しい」と言われるとやかんで飲ませた。しかし、次第に手指の色が紫に変わり、14日に息を引き取った。
三好さんは近くの山中で娘を荼毘(だび)に付した。「思いきり泣いて泣いて涙の止まる迄(まで)泣いた。なんで自分も死ななかったかと」。9~3歳の長男、三女、四女は遺骨も見つからず、妻子5人を失った。長女は一命を取り留めた。(編集委員・水川恭輔)
(2024年10月8日朝刊掲載)