[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月上旬 放射線障害で脱毛症状
24年10月9日
1945年10月上旬。出雲市出身で当時22歳の来間輝夫さんは広島市宇品町(現南区)の広島第一陸軍病院宇品分院に入院していた。放射線障害で脱毛症状が出た患者の一人として、日本映画社と写真担当の菊池俊吉さんに撮影された。
生家は出雲市で農業と造園業を営んでいたが、召集されて広島城内の中国軍管区司令部の炊事担当に配属。8月6日、爆心地から約800メートルで倒壊した司令部の建物の下敷きになった。15日ごろから内出血の赤い斑点が全身に現れ、発熱した。
すぐに入院した宇品分院は「兵隊の患者で満員でした」(99年の手記)。苦しむ患者の声が響き、静かになると死んでいたという。自身も体調が悪化して一時意識を失い、食べるのもままならなかった。ただ、9月中旬に実家から見舞いに来た父や妹が差し入れたスイカは汁にして飲めた。次第に快方に向かい、11月に帰郷した。
撮影時に名前が記録されたが、その後の消息は分かっていなかった。今回、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館所蔵の同じ名前の手記を手掛かりに、出雲市の長男博さん(74)と連絡が取れた。
来間さんは前立腺がんのため2001年に78歳で亡くなっていた。博さんは、驚いた表情で被爆約2カ月の写真を見つめた。「父で間違いない。でも全く知らなかった」
帰郷後も白血球減少がみられ、50年生まれの博さんの幼少時は夏になると決まって体調が悪そうに家で横になっていた。「子ども心にも、おかしいなと」。中高生の頃に初めて被爆の話を聞き、父は回復を「スイカのおかげ」と語った。
長年8月6日は父のために家族で赤飯を炊き、見送った後も仏壇に供えている。「私やその子どもがいるのは、父が原爆を生き抜いてくれたから。その感謝です」(編集委員・水川恭輔)
(2024年10月9日朝刊掲載)
生家は出雲市で農業と造園業を営んでいたが、召集されて広島城内の中国軍管区司令部の炊事担当に配属。8月6日、爆心地から約800メートルで倒壊した司令部の建物の下敷きになった。15日ごろから内出血の赤い斑点が全身に現れ、発熱した。
すぐに入院した宇品分院は「兵隊の患者で満員でした」(99年の手記)。苦しむ患者の声が響き、静かになると死んでいたという。自身も体調が悪化して一時意識を失い、食べるのもままならなかった。ただ、9月中旬に実家から見舞いに来た父や妹が差し入れたスイカは汁にして飲めた。次第に快方に向かい、11月に帰郷した。
撮影時に名前が記録されたが、その後の消息は分かっていなかった。今回、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館所蔵の同じ名前の手記を手掛かりに、出雲市の長男博さん(74)と連絡が取れた。
来間さんは前立腺がんのため2001年に78歳で亡くなっていた。博さんは、驚いた表情で被爆約2カ月の写真を見つめた。「父で間違いない。でも全く知らなかった」
帰郷後も白血球減少がみられ、50年生まれの博さんの幼少時は夏になると決まって体調が悪そうに家で横になっていた。「子ども心にも、おかしいなと」。中高生の頃に初めて被爆の話を聞き、父は回復を「スイカのおかげ」と語った。
長年8月6日は父のために家族で赤飯を炊き、見送った後も仏壇に供えている。「私やその子どもがいるのは、父が原爆を生き抜いてくれたから。その感謝です」(編集委員・水川恭輔)
(2024年10月9日朝刊掲載)