声 セミパラチンスクからヒロシマへ <下> 「架け橋」
24年10月9日
ヒロシマ 核被害地の模範
期待の声への姿勢問われる
カザフスタン・セメイ市(旧セミパラチンスク市)の公園に、きのこ雲の下で抱き合う母子を模したモニュメントが立つ。その前でアケルケ・スルタノバさん(41)は9歳と7歳の娘に語りかけた。「私が生まれた街で核実験があって、たくさんの人が病気になったの」
同市出身でトルコ在住のスルタノバさん。今回の取材のため娘2人と帰省し、通訳として同行してくれた。故郷の核の惨禍をわが子に伝えるのは初めてだと打ち明けた。
彼女の目には、核実験の被害者に対するカザフ政府の支援は不十分と映る。「政府は被害を隠さず発信すべきです。被害者は、自身が救われて初めて反核を訴えられるのではないでしょうか」
手本は被爆地広島だという。
幼い頃、核実験場から100キロ以上離れた自宅で不気味な揺れを何度も感じた。理由は教えられず、地震だと理解した。核実験が中止された1989年ごろ、アニメ「はだしのゲン」を見て原爆の恐ろしさを知った。
市民が平和希求
91年のソ連崩壊で国が経済的に困窮する中、父が市民団体「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」の留学生募集を知る。彼女は16歳で親元を離れ、現在の山陽女学園高等部(廿日市市)で1年間学んだ。
被爆者はもちろん、多くの市民が「核のない世界」を希求していることに驚いた。恒久平和を象徴する都市とするため制定された広島平和記念都市建設法にも感銘を覚えた。故郷に戻って大学を卒業後、一橋大大学院に進学。両国を行き来して核実験の被害者から現状を聞き取り、修士論文にまとめた。
二つの核被害地の「架け橋」として祖国を見つめてきた。
被爆地と比べて平和運動は盛んではない。かつて旧実験場近くの住民らは「ポリゴン(実験場の通称)が悪さをしている」と嘆くばかりだったと振り返る。
ただ、変化も感じている。非政府組織(NGO)「Poligon(ポリゴン)21」のように被害者が主体的に声を上げ始めた。セメイ市と広島市が平和や医療の分野で交流を深める取り組みも始まった。「やっと自分たちの経験を世界に発信できる」とスルタノバさんは期待を込める。
今回、旧実験場に隣接するサルジャール村を十数年ぶりに記者らと訪れた。水洗トイレやスマートフォンが普及し、暮らしは上向いたように見えた。しかし、住民は「長生きできる人がいない」と窮状を口々に訴えた。彼女が日本メディアの取材を支援するのも、今も続く核被害の実態を広く伝えるためだ。
7割が原発賛成
カザフスタンでは原発建設の是非を問う国民投票が今月6日に実施され、賛成が7割を占めた。ロシアをはじめ、世界では核兵器による威嚇が繰り返されている。
核被害のない未来をどうつくるか。母になり、スルタノバさんは改めて自問する。原点はやはりヒロシマだ。「訪れた人が皆、平和について考える場所。世界中にある核被害地の模範なんです」
彼女だけではない。記者が行く先々で被爆地への期待の声を聞いた。ヒロシマは今、セミパラチンスクの声を受け止め切れているだろうか。その声は核に対する姿勢も問うている。 (この連載はジャーナリスト小山美砂、本紙映像担当記者の山田尚弘が担当しました)
(2024年10月9日朝刊掲載)