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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月11日 血液病 解剖で裏付け

 1945年10月11日。記録映画の製作に写真担当で同行した菊池俊吉さんは、広島逓信病院(現広島市中区)のそばに立つバラックの「解剖室」で、広島県立医学専門学校(現広島大医学部)の病理学者、玉川忠太教授の姿を収めた。

 玉川教授は、蜂谷道彦院長の岡山医科大(現岡山大医学部)の先輩。当初は県に被爆者の遺体の病理解剖の許可を求めたが、断られた。だが、けがのない人も相次ぎ亡くなる事態にじっとしておれず、後輩の病院で8月29日に始めた。

 蜂谷院長の55年の著書「ヒロシマ日記」によれば、5例の解剖を終えた31日に所見を聞き、体の表面ばかりでなく体内の臓器にことごとく出血斑が認められ、一例を除き出血が死因だった。出血を止めるのに重要な血小板の減少が理由として考えられた。

 さらに、血を造る骨髄が「非常に破壊されている」(61年刊の「広島原爆医療史」収録の玉川教授の証言)。「血液病」が起きているという蜂谷院長の見立てと重なった。10月13日まで病理解剖を続け、19人の剖検記録が残る。

 うち一人は9月12日に41歳で亡くなった安田三朗さん。爆心地から約1・1キロの自宅で被爆した。10歳だった長男泰之さん(89)=横浜市=によると「当初は元気に歩きよった」という。

 泰之さんの母は自宅で被爆死。生活再建を担うはずの父も8月20日を過ぎた頃から「たまらん」と苦しみ始めた。剖検記録によると、胸部や腹部にやはり「溢血(いっけつ)斑」が認められた。

 被爆者の病理解剖は似島(現南区)などでも日本側の軍医や医学者によって8月からなされ、研究のため病理標本が残された。一方で、米軍側は「接収」に動く。(編集委員・水川恭輔)

(2024年10月11日朝刊掲載)

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