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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月中旬 民間療法頼み広がる

 1945年10月中旬。広島駅近くの荒神橋(現広島市南区)のたもとに「爆彈症のお灸(きゅう)」と書かれた鍼灸(しんきゅう)院の看板が掛かっていた。おきゅうは当時、多くの市民がなすすべがなかった「原子爆弾症」への効果が期待されていた。

 それには訳があった。急性放射線障害の症状の一つは白血球減少。一方、おきゅうは白血球を増やし免疫力を高める効果があるとされてきた。

 9月8日付中国新聞も「すぐすゑろお灸 原子爆彈症に奇蹟的な効果」の見出しで取り上げた。鍼灸師が多くの患者に据えたところ、発熱や脱毛、斑点の症状がある重症者も快方に向かっていると報じている。

 広島女学院高等女学校(現中区の広島女学院中高)2年生だった井前都さん(92)=廿日市市=もおきゅうに頼った。爆心地から約1キロの雑魚場町(現中区)で建物疎開の作業中に被爆。約1週間後に脱毛や歯茎の出血を発症し、寝込んでいた。

 西新町(現中区)に住んでいた両親たちは被爆死し、廿日市町(現廿日市市)にある父の実家に身を寄せていた。新聞情報を基に毎日担架に乗せられ「廿日市駅の鍼灸院でやいとを据えてもらった。熱かった」。もうろうとしていた意識は戻り出したが、食欲は回復せず立つこともできなかった。半年間床に伏せた。

 宇品町(現南区)で被爆した演芸家の三代目江戸家猫八(本名岡田六郎)さん(2001年に80歳で死去)も同時期、おきゅうを据えたと手記「キノコ雲から這い出した猫」(95年)に記す。陸軍船舶司令部で救護や遺体処理に従事。復員し東京に戻った9月、白血球が減って脱毛した。

 手記によれば「白血球を増やすには、おきゅうが一番」と知人に紹介された。身体が弱っていただけに据えると動悸(どうき)が速くなった。熱さにも耐えられず、10日間でやめたという。(山下美波)

(2024年10月14日朝刊掲載)

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