[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月11~13日 祈る思い 撮影日誌に
24年10月13日
1945年10月11~13日。日本映画社(日映)の医学班、山中真男さんは大芝国民学校(現広島市西区の大芝小)の救護病院を訪れた。「ロケハン」した11日、現場で湧き上がった思いを撮影日誌に赤裸々につづった。
「我が児に引きくらべて、不ビンが胸一ぱいに込上げて来た。アメリカのチクショウ奴(め)。この児 親子をどうか助けてやって下さいと神に祈って帰る」
当時42歳の山中さんにそう思わせたのは、12歳の入院患者、竹内陽子さん。舟入町(現中区)の自宅で倒れた冷蔵庫の下敷きになり、脚の骨が見えるほどの傷を負った。頭髪は抜けていた。
初めは自宅で被爆してけがのなかった31歳の母ヨ子(ね)コさんが看病していたが、自身も体に斑点が現れて歯茎から出血。そろって入院していた。
日映の医学班は12日、壊れた校舎で床に伏す母子を撮影。「聞けば母親はあと数日しか生命がたもてないらしい」(日誌の12日)。13日に山中さんが陽子さんにあめをあげると「非常に喜んでくれた」(13日)。だが、母親は14日に亡くなり、娘も11月3日に息を引き取った。
2人の姿は映画の撮影に同行した菊池俊吉さんも写真に収めた。「原爆の非情と実体を見せつけられた思いになる(略)申しわけない気持で写させてもらう」(87年刊の「原爆を撮った男たち」収録の手記)
広島原爆の急性放射線障害で、10月から12月までの「第3期」は症状が回復に向かったとされる。ただ、一様ではなく犠牲者は増え続けていた。山中さんは「患者がまだまだ、いくら居るか解(わか)らない。いくら戦争に負けても、これ等の救済は政府はどう考へてゐるのであろうか」(12日)と疑問を抱いた。(編集委員・水川恭輔)
(2024年10月13日朝刊掲載)
「我が児に引きくらべて、不ビンが胸一ぱいに込上げて来た。アメリカのチクショウ奴(め)。この児 親子をどうか助けてやって下さいと神に祈って帰る」
当時42歳の山中さんにそう思わせたのは、12歳の入院患者、竹内陽子さん。舟入町(現中区)の自宅で倒れた冷蔵庫の下敷きになり、脚の骨が見えるほどの傷を負った。頭髪は抜けていた。
初めは自宅で被爆してけがのなかった31歳の母ヨ子(ね)コさんが看病していたが、自身も体に斑点が現れて歯茎から出血。そろって入院していた。
日映の医学班は12日、壊れた校舎で床に伏す母子を撮影。「聞けば母親はあと数日しか生命がたもてないらしい」(日誌の12日)。13日に山中さんが陽子さんにあめをあげると「非常に喜んでくれた」(13日)。だが、母親は14日に亡くなり、娘も11月3日に息を引き取った。
2人の姿は映画の撮影に同行した菊池俊吉さんも写真に収めた。「原爆の非情と実体を見せつけられた思いになる(略)申しわけない気持で写させてもらう」(87年刊の「原爆を撮った男たち」収録の手記)
広島原爆の急性放射線障害で、10月から12月までの「第3期」は症状が回復に向かったとされる。ただ、一様ではなく犠牲者は増え続けていた。山中さんは「患者がまだまだ、いくら居るか解(わか)らない。いくら戦争に負けても、これ等の救済は政府はどう考へてゐるのであろうか」(12日)と疑問を抱いた。(編集委員・水川恭輔)
(2024年10月13日朝刊掲載)