緊急連載 被団協ノーベル平和賞 <中> 「絶対悪」知らしめた先人
24年10月13日
<div style="font-size:106%;font-weight:bold;">声なき声背負い活動</div><br>
「長い間やってきたことをようやく認めてもらえたようでうれしい」。被爆者の阿部静子さん(97)=広島市南区=は、日本被団協へのノーベル平和賞授与決定のニュースに涙したという。
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「藤居さんも、吉川さんもきっと喜んでいることでしょう」。次から次へ挙がる名前は、被爆者たちに何の援護もなく、後障害や生活困窮にさいなまれていた時代、原爆被害者を束ね、立ち上がった先人である。
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原爆に肉親を奪われた遺族で、私財をなげうち被爆者救済に尽くした日本被団協の初代事務局長の藤居平一さん(1915~96年)、初期の被爆者団体を組織し、自らの傷痕をさらして被爆の実情を訴え「原爆一号」と呼ばれた吉川清さん(11~86年)…。
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援護の道を切り開くだけでなく、核兵器が世界の人類にとって「絶対悪」だと知らしめてきた。爆心地から約1・5キロで被爆し顔や体を焼かれた阿部さんにとって、同じ傷を抱える仲間であり、支えでもあった。
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「これが始まりです」。阿部さんが取り出したのは68年前のモノクロ写真。56年3月、広島・長崎の被爆者約50人が東京に出向き、政府閣僚や国会に切実な声を届けた請願の際のスナップや記念写真だ。阿部さんも藤居さん率いる代表団の一人として子連れで参加。被爆者の窮状を訴え、被爆者救済を求めた。「色よい返事はなく失望が強かった。きちんとした組織をつくって訴えなくてはとなりました」
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ばらばらに活動していた会を藤居さんらがまとめて5月、広島県被団協が発足。8月、第2回原水禁世界大会が開かれた長崎で日本被団協が誕生する。
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「人に奇異な目で見られるのがつらく、うつむいて暮らしていましたが、被団協の集まりで外に出ると元気になる。家族も喜んでいました」。活動が阿部さんを癒やし、使命感を育む。「ほかの誰にも同じ思いをさせてはならない」―。後の国内外での証言活動につながる。
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ノーベル賞委員会は授賞理由の中で、「全ての被爆者に敬意を表したい」と述べている。
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日本被団協の初代代表委員も務めた森滝市郎さん(01~94年)は原水禁運動の先頭に立ち、世界で核実験が行われるたび平和記念公園(中区)の原爆慰霊碑前で座り込んだ。次女の春子さん(85)=佐伯区=は生前の父から聞いた。「慰霊碑に背を向けて座るのは、何も言えずに亡くなった被爆者の声なき声、無念を背負っているからだ」と。
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被爆者運動の柱には、原爆被害につながる戦争の絶対否定がある。国家がもたらす市民への戦争被害を受忍しない、と国家補償を求めてきた。
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春子さんは、今回の授与決定に「今生きている私たちは気持ちを引き締めるべきだ」と力を込める。「被爆者運動の原点を思い起こさなくてはいけない」(森田裕美)
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(2024年10月13日朝刊掲載)