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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月15、16日 体験記の出版 差し止め

 1945年10月15、16日。東京帝国大(現東京大)の地震研究所技師、金井清さん(2008年に100歳で死去)の研究室の助手が1編の被爆体験記を書き写していた。文部省学術研究会議の調査団に加わって近く訪れる広島の被害状況が詳しく記されていた。

 筆者は、医学部の外科の助教授だった木本誠二さん(95年に87歳で死去)。広島市出身の金井さんの広島一中(現国泰寺高)の同級生で、帰郷中に爆心地から約3キロの牛田町(現東区)の生家で被爆していた。

 「身體(からだ)は一回轉(かいてん)して土間に叩(たた)き付けられ、左の耳はガンとして鼓膜が破裂した様に感じ」「三粁(キロ)離れた筆者の住居前ですら熱傷死があった」。雑誌社からの依頼で書き、科学者らしい冷静な観察で被害を伝えている。

 だが当時、世に出ることはなかった。木本さんは後に、「GHQ(連合国軍総司令部)によって差し止められた」(81年の回顧録「医学と私」)と明かしている。

 掲載予定だった雑誌は明らかではないが、45年10月の「日本医事新報」とみられる。体験記の中に、同誌に載った東京帝国大の都築正男教授の原爆被害に関する調査報告との同時掲載を想定したと読める一節があるためだ。

 木本さんの原稿だけが「差し止め」になった経緯は不明。ただ、体験記だけに原爆の悲惨さを表す記述が目立つ。「地獄図絵」「有らゆる生物を殺戮(さつりく)し枯死せしめる」。GHQが9月19日に発したプレスコードは、「占領軍に対し不信もしくは怨恨(えんこん)を招来するような事項を掲載してはならぬ」などとしていた。

 体験記はその後、肉筆原稿も所在不明に。金井さんの研究室の筆写原稿が2018年に原爆資料館に寄贈されたのをきっかけに、存在と内容が知られるようになった。(編集委員・水川恭輔)

(2024年10月16日朝刊掲載)

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