[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月16~17日 似島の海岸に「千人塚」
24年10月17日
1945年10月16~17日。爆心地から約10キロ南の広島湾の離島、似島(現広島市南区)の海岸に、「千人塚」と墨で書かれた墓標が立てられていた。原爆投下直後に市内から次々と負傷者が運び込まれた。遺体の火葬が追いつかず、そのまま埋葬される犠牲者もいた。
笠岡貞江さん(92)=西区=の母キチさん=当時(49)=も被爆後、似島で亡くなった。「兄たちと毎年のように似島に渡り、母を追悼してきました」
笠岡さんは進徳高等女学校(現南区の進徳女子高)1年生だった12歳の時、爆心地から約3・5キロ離れた江波町(現中区)の自宅で被爆。両親は、約1キロの雑魚場町(現中区)で知人の住んでいた区域が建物疎開の対象になったため、家を空ける手伝いに出ていた。
父の品次郎さん=当時(52)=は7日、兄の吉太郎さん(昨年98歳で死去)に大八車に乗せられて帰宅した。体は黒焦げで衰弱が進み、8日に息を引き取った。家族に「キチと途中で離れてしまった。捜してくれ」と言い残した。
翌9日、キチさんが似島の救護所にいると人づてに聞き、吉太郎さんが渡ると、すでに火葬されていた。手にできたのは、小さな袋に入った誰のものかもはっきりしない骨のかけらと、髪の毛だけだった。笠岡さんは戦後間もない時期に訪ねた似島に、木の墓標が残っていたと記憶する。
似島には陸軍検疫所が置かれており、原爆投下直後から、臨時野戦病院となった。馬匹検疫所の馬小屋にも毛布などを敷いて、負傷者を寝かせた。8月25日に閉鎖されるまでの間に、約1万人が収容された。(山本真帆)
(2024年10月17日朝刊掲載)
笠岡貞江さん(92)=西区=の母キチさん=当時(49)=も被爆後、似島で亡くなった。「兄たちと毎年のように似島に渡り、母を追悼してきました」
笠岡さんは進徳高等女学校(現南区の進徳女子高)1年生だった12歳の時、爆心地から約3・5キロ離れた江波町(現中区)の自宅で被爆。両親は、約1キロの雑魚場町(現中区)で知人の住んでいた区域が建物疎開の対象になったため、家を空ける手伝いに出ていた。
父の品次郎さん=当時(52)=は7日、兄の吉太郎さん(昨年98歳で死去)に大八車に乗せられて帰宅した。体は黒焦げで衰弱が進み、8日に息を引き取った。家族に「キチと途中で離れてしまった。捜してくれ」と言い残した。
翌9日、キチさんが似島の救護所にいると人づてに聞き、吉太郎さんが渡ると、すでに火葬されていた。手にできたのは、小さな袋に入った誰のものかもはっきりしない骨のかけらと、髪の毛だけだった。笠岡さんは戦後間もない時期に訪ねた似島に、木の墓標が残っていたと記憶する。
似島には陸軍検疫所が置かれており、原爆投下直後から、臨時野戦病院となった。馬匹検疫所の馬小屋にも毛布などを敷いて、負傷者を寝かせた。8月25日に閉鎖されるまでの間に、約1万人が収容された。(山本真帆)
(2024年10月17日朝刊掲載)