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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月中旬 講堂で看護 外に火葬跡

 1945年10月中旬。草津国民学校(現広島市西区の草津小)の講堂には、床に伏す被爆者の姿があった。戦時災害保護法に基づく2カ月の救護期間は5日に終わっていたが、日本医療団病院の一つとなっていた。日本映画社(日映)は、重湯を飲ませてもらう患者を撮影している。

 爆心地から約4・7キロ南西の同校は倒壊や火災を免れた。被爆直後、逃げてきた負傷者を収容し、「広島市国民義勇隊草津大隊」の地元住民たちが救護を担った。隊長だった故小川早苗さんが残した「大隊日誌」(広島県立文書館寄託)などが、懸命な治療や物資確保について記録している。

 「避難者続々到着殆(ほと)んど火傷なり(略)講堂及七教室ニ重患軽患区別シテ看護ニ従事ス」(日誌の8月6日)。壊滅した市中心部にあった県庁や市役所との連絡が取れない中、住民約50人態勢で救護を始め、6日午後4時までに545人を収容した。「二十一名之(の)十歳位以下之迷子孤児」も含まれ、「女子班」が見守った。

 その日のうちに、比較的近い大野村(現廿日市市)に牧場があったチチヤスの「牛乳 一合瓶六百五十本」を搬入。避難者に配った。「草津蒲鉾組合」も6日、「代用食団子」2250個を提供。ほかにも住民たちが卵や、やけどに塗るための食用油を寄せ、救護所の運営に協力した。

 一方で、14日までに収容者136人が死亡。連日、まきを集めて校庭で火葬した。同校での救護は16日から広島県に移管されたが、炊事などは当面住民が担った。9月になると、水主町(現中区)で全壊全焼した広島県立広島病院の医師が治療に入り、日本医療団病院となった後も続けた。

 校庭には火葬の跡が残った。日映の撮影に同行した菊池俊吉さんが写真に収めている。(編集委員・水川恭輔)

(2024年10月18日朝刊掲載)

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