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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月 都市復興へ交通を再建

復旧の路面電車に人波

 1945年10月。広島市中心部の紙屋町(現中区)に、広島電鉄の乗降客の人混みができていた。「広島電鉄開業100年創立70年史」(2012年刊)によれば、9月から10月にかけて市中心部に至る路面電車の運行が順次再開。10月11日に広島駅近くの区間も復旧し、落橋した一部区間を除いて己斐―広島駅間が開通していた。

 当時広電常務だった伊藤信之さん(84年に86歳で死去)は55年の手記にこうつづる。「都市の復興を促進するためには、先(ま)ず、交通運輸の再建を急がなければいけないという信念の下に戦災翌日から直ちにその準備にとりかかった」。後に広島カープ(現広島東洋カープ)の結成にも関わり、球団社長も務めた。

 広電は原爆で従業員185人が被爆死した。市内電車の123両中108両が被害を受け、うち40両以上が全壊・全焼または大破。運行に必要な電柱や架線も大打撃を受けた。

 伊藤さんは爆心地から約2キロの千田町(現中区)の本社で被爆。次女を失う中、復旧を指揮した。当初は陸軍東京電信隊から電柱設置などの支援を受けたが、8月15日に終戦が告げられた後は、広電が独力で千田町変電所の復旧などを急いだ。

 東西を結ぶ市内線は市西部の己斐から東へと復旧。被爆3日後に己斐―西天満町間で乗客を乗せて走ったとされ、9月7日に中心部の八丁堀まで運行再開した。市南部からの宇品線も12日、宇品と紙屋町が結ばれた。

 ただ、天満川では、9月17日の枕崎台風と10月の水害で電車専用橋が落ちた。広島駅―己斐間の市内線は広島駅―小網町と天満町―己斐に分断され、天満川では渡し船が乗客たちを運んだ。また10月時点は単線での運行で、擦れ違いできなかった。広島駅、己斐方面、宇品からの各電車は紙屋町交差点付近で折り返した。(編集委員・水川恭輔)

(2024年10月21日朝刊掲載)

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