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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月中旬 廃虚の小網町 学徒犠牲

 1945年10月中旬。日本映画社の映画製作で写真を担当した菊池俊吉さんは広島市小網町(現中区)の廃虚を撮った。爆心地から約900メートル南西で、路面電車の土橋電停の近く。一帯は多くの学徒が建物疎開の後片付けに動員されて被爆し、犠牲となっていた。

 8月6日朝、広島県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年の石崎睦子さん=当時(12)=も動員されて小網町方面へと家を出た。両親と姉、妹との5人で舟入川口町(現中区)に住んでいた。

 妹の榎郷子さん(90)=京都府城陽市=は「『行って帰ります』と言って出かけるむっちゃん(睦子さん)のうれしそうな表情を覚えています」。睦子さんは麦わら帽子を買うお金を母からもらっていたという。

 原爆のさく裂時、中島国民学校(現中区の中島小)5年だった郷子さんと両親は家にいて助かった。別の動員先に出た上の姉とは再会できたが、睦子さんは帰らなかった。被爆から1週間ほど後、郷子さんは連日捜し歩く父秀一さんに伴われ小網町一帯に入った。

 そこで、郷子さんはふいに、山積みの瓦の間に何かがあるのを見つけた。引っ張ると制服が出てきた。睦子さんの名札が縫ってあった。父は見ると天を仰いだ。

 母安代さんは制服を抱いて泣き続け、悔いた。8月5日、睦子さんが配給品のミカンの瓶詰を「食べたいね」と言った時、いざというときのために取っておこうと答えたからだ。「なんで食べさせてやらんかったんじゃろうと。母はその後、生涯ミカンを口にしませんでした」

 睦子さんの遺骨は今も見つかっていない。制服と、8月5日まで書かれた日記が原爆資料館に残る。5日は掃除の手伝いをしたと記し、「これからも一日一善と言ふことをまもらうと思ふ」とつづっている。(編集委員・水川恭輔)

(2024年10月20日朝刊掲載)

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