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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月19日 復興掲げ 己斐で「祭り」

被爆に屈せず 紡ぐ伝統

 1945年10月19日。広島市西部の己斐町(現西区)で、地元の旭山神社の秋祭りに合わせ、市内で先駆けて「復興祭」が開かれた。仮設の舞台がある会場は観客で満員になり、舞踊やギター演奏に、餅まきならぬ「柿まき」も。米の代用食としてだんご汁を出す臨時食堂やビール立ち飲み所も設けられ、人の列ができた。

 企画したのは広島県商工経済会(現広島商工会議所)の外郭団体、中国復興財団。被爆後に結成され、中小商工業や文化の復興を掲げていた。

 旭山神社の氏子たちは恒例の「俵もみ」にも臨んだ。豊作に感謝する俵をのせて街を練り歩く伝統行事。己斐地区で2歳で被爆し、郷土史を研究する佐伯晴将さん(81)=西区=は、みこしを担ぐ氏子や沿道の観衆を収めた写真を見て思いをはせる。「年中行事の筆頭。元気づけられたはず」

 己斐地区は爆心地から2キロ以上離れており、壊滅的な被害は免れたが、家屋十数軒が倒壊し、約80軒が全焼。みこしの通り道はトタンなどで応急修理された家々が目立った。佐伯さんによれば、祭り装束が十分そろわず、俵の確保も苦労しながら伝統をつないだ。

 復興祭での地元特産の盆栽の展示場所には「戦災死者ニ限リ御佛前花ヲ無料ニテ差上ゲマス」の張り紙があった。日本映画社(日映)の撮影に同行して訪れた菊池俊吉さんが写真に収めている。

 救護所となり、約千人の収容者が死亡したとされる己斐国民学校(現己斐小)には引き取り手のない遺骨が残っていた。20日、校長に話を聞いて遺骨を見た日映の山中真男さんは「人間が次々に戦争を呪い死んで行った姿が目に浮ぶようである」と撮影日誌に記した。(山本真帆)

(2024年10月19日朝刊掲載)

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