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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月 熱線で溶けた瓦を調査

 1945年10月。東京帝国大(現東京大)の菅義夫教授(85年に83歳で死去)は、原爆のさく裂による輻射(ふくしゃ)熱や爆風圧を調べるため広島市に入った。応用物理学が専門で、文部省学術研究会議の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の9科会の一つ、機械金属学科会に加わっていた。

 10月5日に始まる調査ノートが原爆資料館に残る。爆心地付近にあった表面が溶けてぶつぶつになった瓦に注目。焦土を歩き、「島病院附近(ふきん)ニテ瓦一ケ拾集(しゅうしゅう)」(14日)。爆心地から約500メートルの白神社でも「コノ附近瓦ノブツブツ少し」(同)と記録した。爆風の調査で、ずれた元安橋の石柱や広島護国神社のこま犬もスケッチしている。

 8日から一時長崎市にも入った。廃虚で占領下でもある両被爆地の調査は一筋縄ではいかなかったという。「柄の悪い連合軍に、時計をとられたり、カメラを奪われたり、焼芋を売っている所があると云(い)う噂(うわさ)に眼の色を変えたり、空腹、疲労、宿舎の不備などは言語に絶していた」(73年刊の「原子爆弾」収録の手記)

 菅教授は、科会長を務めた東京帝国大の真島正市教授たちと調査報告をまとめた。広島市では爆心地から半径約700メートルの範囲で原爆の輻射熱のため表面が溶けた瓦が確認されたとした。

 また、何度まで加熱すれば同様の状態になるのかを現地で採取した瓦を小型電気炉に入れて調べると、約1200~1250度だった。ただ、原爆の爆発と違って炉がこの温度に達するのに10分以上を要しており、温度は「最低値とでも解釈する方が至当」とした。

 幾多の市民の命を奪った熱線のすさまじさを示す報告は、占領が明けた翌年の53年に刊行された「原子爆弾災害調査報告集」に収録された。(山本真帆)

(2024年10月22日朝刊掲載)

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