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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月23日 軍報告書 入市被爆を記録

 1945年10月23日。戦時中に広島市に司令部を置いていた中国軍管区の軍医部が、原爆の人体影響に関する報告書「衛生速報 第九号」をまとめた。投下直後に遺体処理などのため市中心部に送られた兵士の健康状態などに着目し、終戦後も調べ続けていた。

 報告書によると、「爆撃当日ハ広島市ニ在住セス八月六日以降広島市ニ於テ作業ニ従事或(あるい)ハ其ノ他ノ用務ノ為同地ニ滞在セシ者」について136例の血液検査の結果を分析。65%の89例に「白血球減少症」を認めた。

 うち減少が目立つのは、原爆投下後の早期に爆心地から500メートル圏内に入った人。また、滞在日数の長い人が「著明ナル影響」を受けていたという。

 いまだ全容が分かっていない「入市被爆」の放射線影響を示す最初期の記録となった。当時は調査人数に限りもあり、「重篤ナル症状惹起(じゃっき)セル者ハ僅少(きんしょう)ニシテ死亡セル者ナシ」とされたが、被爆者や遺族の証言、手記をたどると、入市後の死亡例も尽きない。

 当時9歳の森岡恵子さん(88)=中区=は、入市したいとこの富野時子さんを失った。一回りほど年上の「きれいなお姉さん」だった。

 時子さんは8月6日、郊外の広島県府中町の親戚宅で難を逃れたが、父を捜して自宅のあった市中心部の鷹匠町(現中区)に被爆5、6日後に入った。その後も約10日間、父が中心部で営んでいた劇場の跡などを捜し歩いた。

 同じ親戚宅に疎開していた森岡さんは、体調を崩した時子さんの姿が目に焼き付いている。「家に戻ると、顔を真っ青にして『体が悪い』とひっくり返っていました。髪も歯も抜けて…」。9月6日に亡くなった。(編集委員・水川恭輔、山下美波)

(2024年10月23日朝刊掲載)

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