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社説・コラム

『潮流』 「ラン友」の亡き父

■ヒロシマ平和メディアセンター長 金崎由美

 「日本被団協にノーベル平和賞」の一報が入った11日、震える思いで関連記事を一気に書いた。すると翌日、朝刊を読んだ金子真一さん(72)から「走っていますか」と久々に連絡をもらった。新型コロナ禍以降怠けているが、ひところは同じランニングクラブで広島城周辺を走った「ラン友」だ。

 聞けば「父は広島高等師範(現広島大)の学生で、森滝先生の教え子だった」という。日本被団協結成時の代表委員、故森滝市郎・広島大名誉教授のこと。シューズのひもを結べば軽い会話ばかりなので、初耳だった。

 当時19歳だった父一夫さんは動員先の三菱重工業広島造船所(現中区)で被爆。学徒派遣隊長だった森滝さんと一緒にいた。他の学生と苦労して氷を入手し、ガラス片が刺さった森滝さんの右目を冷やした。「炎天下、氷が溶けるのがもったいなくて足速(ば)やに運んだ」と手記に残している。

 看護のかいなく右目は失明したが、左目の視力は守られた。40年前の本紙取材に「あの混乱の中で学生たちがよくも手厚い看病をしてくれたものだ…左目が見えなかったら私は戦後あれほど行動できなかったかもしれない」と森滝さんは語る。ノーベル平和賞に至る被爆者運動も、最初から大きく違っていただろう。

 郷里の岡山で教壇に立ち、倉敷青陵高校長を務めた一夫さん。13年前に亡くなるまで膝にガラス片が刺さっていた。死体が横たわる焦土を歩いた記憶を進んで語ることはなかったが、森滝さん揮毫(きごう)の「慈(じ)」の色紙を手元に置いた。核で脅す「力の文化」に代わる「慈の文化」を森滝さんは唱えていた。受け継ぐべき被爆者の真の思想とは―。走り、時に立ち止まって考えたい。

(2024年10月24日朝刊掲載)

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