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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月25日 貯金支局で授業始まる

 1945年10月25日。千田国民学校(現広島市中区の千田小)は、近くの広島貯金支局4階を借りて授業を始めた。爆心地の南約1・7キロにあった木造校舎は全焼。廃校の話も出たが、集団疎開していた児童が9月末から10月上旬にかけて戻り、教室を確保することで窮地を脱した。

 「この時の教職員の喜びは実に大きかった」。当時の蒲生信夫教頭が千田小の50年記念誌(75年刊)に寄せた手記で、新たな学校生活の様子を書き残している。

 教職員は毎朝、校庭のテントで打ち合わせをし、朝礼が終わると、高学年を引率して貯金支局に向かった。鉄筋4階地下1階建て。原爆の爆風で窓ガラスは吹き飛ばされたが、消火活動により類焼を免れていた。

 教室は細長い部屋を仕切って設けられ、むしろやござを敷き、疎開先から持ち帰った裁縫台を机代わりに置いた。「寒くなると硝子(がらす)一枚もない窓から、粉雪が舞い込んで、寒気がひとしお身にしみる」(手記)

 一方、学校に残った低学年は「青空教室」で授業を受けた。当時1年生の長谷部松子さん(85)=京都府宇治市=は鉄骨だけが焼け残った講堂で学んだという。

 千田町3丁目の自宅近くで被爆し、2歳の弟を失った。母も大やけどを負った。それでも「大人は悲しみに暮れていたと思うが、私は学校で友人に会えるのがうれしかった」。火災を免れた自宅から勉強道具を持って行き、児童同士で教科書を見せ合った。

 学校は、46年の年明けに貯金支局から求められて退去。学区内の民家を借りて、授業を続けた。同年3月、町内会や後援会の協力で工事費を確保し、被爆後初の学校建物となる校務室を築いた。6年生の授業に使い、卒業式も営んだ。(山下美波)

(2024年10月25日朝刊掲載)

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