[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月29日 白神社 仮殿で秋の祭事
24年10月29日
1945年10月29日。広島市小町(現中区)の白神社で秋の祭事が営まれた。爆心地から約500メートルにあった社殿は原爆の猛烈な爆風にさらされて倒壊し、焼失していた。この日のため、境内に仮殿が組まれた。
「ボロボロの着物をきたある参拝者は、祭事やみこ舞などを見ながら、祭事の仮台の丸太棒にしがみつき、感きわまって泣いた」(71年刊の「広島原爆戦災誌」)。由緒ある岩礁や、こま犬、常夜灯の台などは被爆に耐えて残っていた。
神社の起源は、付近が海だった16世紀ごろ。岩礁の上に白い紙を立てて船の衝突を防いだのに由来し、信仰を集めた。現地に祠(ほこら)を建て「白神(しらかみ)」と称したとされる。広島市史社寺誌(72年刊)によれば、広島城を築いた毛利輝元が1591年に新たな社殿を建てた。
戦時中は「戦勝祈願」の場に。45年8月6日朝も参拝者の姿があり、被爆直後は神社の石畳に焼死体が残っていた。野上勝彦社司=当時(36)=と妻=同(33)、5歳と0歳の子どもも犠牲になり、社務所の茶の間で遺骨が見つかった。
出崎森神社(広島県海田町)の社掌で白神社の社掌も兼務していた宗像久男さんが引き継ぎ、周りにしめ縄を張って焼け跡を整理した。被爆直後から参拝者が訪れ、社殿下からあらわになった岩礁を拝んでいたという。
今年も同じ29日、秋季例大祭を営む。ひ孫の宗像利道宮司(56)は「原爆で多くの人が亡くなる中、地元の人たちを思って執り行ったのだろう」と79年前に思いを巡らす。戦後に市史跡に指定された岩礁や、鼻の欠けたこま犬が境内で今も被爆の記憶を刻んでいる。(山本真帆)
(2024年10月29日朝刊掲載)
「ボロボロの着物をきたある参拝者は、祭事やみこ舞などを見ながら、祭事の仮台の丸太棒にしがみつき、感きわまって泣いた」(71年刊の「広島原爆戦災誌」)。由緒ある岩礁や、こま犬、常夜灯の台などは被爆に耐えて残っていた。
神社の起源は、付近が海だった16世紀ごろ。岩礁の上に白い紙を立てて船の衝突を防いだのに由来し、信仰を集めた。現地に祠(ほこら)を建て「白神(しらかみ)」と称したとされる。広島市史社寺誌(72年刊)によれば、広島城を築いた毛利輝元が1591年に新たな社殿を建てた。
戦時中は「戦勝祈願」の場に。45年8月6日朝も参拝者の姿があり、被爆直後は神社の石畳に焼死体が残っていた。野上勝彦社司=当時(36)=と妻=同(33)、5歳と0歳の子どもも犠牲になり、社務所の茶の間で遺骨が見つかった。
出崎森神社(広島県海田町)の社掌で白神社の社掌も兼務していた宗像久男さんが引き継ぎ、周りにしめ縄を張って焼け跡を整理した。被爆直後から参拝者が訪れ、社殿下からあらわになった岩礁を拝んでいたという。
今年も同じ29日、秋季例大祭を営む。ひ孫の宗像利道宮司(56)は「原爆で多くの人が亡くなる中、地元の人たちを思って執り行ったのだろう」と79年前に思いを巡らす。戦後に市史跡に指定された岩礁や、鼻の欠けたこま犬が境内で今も被爆の記憶を刻んでいる。(山本真帆)
(2024年10月29日朝刊掲載)