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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月下旬 家族「爆焼死」の証明書

 1945年10月下旬。爆心地近くの広島市猿楽町(現中区)で、自転車卸業の川本福一さんがいち早くバラックを建てて再起を図ろうとしていたが、辺り一面は焦土のままだった。全滅した世帯もあり、「広島原爆戦災誌」(71年刊)は、爆心地付近一帯は45年10月ごろまで川本さんの一戸だけだったと記す。

 当時8歳だった宮崎善行さん(2022年に85歳で死去)は猿楽町に住んでいた家族4人全員を失った。「八月六日ノ戦時空襲ニ依(よ)リ猿楽町ノ自宅二於テ爆焼死シタルコトヲ証明ス」。45年10月26日に市袋町連合町内会長名で発行された4通の証明書が原爆資料館に残る。

 宮崎さんは神戸市で両親と妹2人と暮らしていたが、44年に集団疎開で1人だけ兵庫県北へ。45年7月、疎開先に会いに来た父武二さんから、親戚を頼って4人で広島に移ったと聞いた。

 家族と再会することはなかった。8月中旬、迎えに来た親類に連れられて猿楽町に入った。武二さん、母トシヱさん=被爆当時(32)、妹康恵さん=同(6)、則子さん=同(2)=の遺骨も見つからなかった。ただ一人残され、広島や関西の親戚宅を転々として育った。

 証明書は両親の遺影とともに、2008年ごろに親戚からもらい受けた。妻喜美さん(86)=京都市=は「夫は幼い時に疎開し、家族の顔も覚えていなかったので大切にしていました」。長く保存されるよう、17年に資料館へ寄贈した。

 2年前に亡くなった宮崎さんの遺骨の一部は、旧猿楽町のそばを流れる元安川に散骨された。「どれだけ先になるか分からないけど、両親や妹と一緒になれるから」という生前の願いに添い、喜美さんと3人の子どもたちが見送った。(山下美波)

(2024年10月27日朝刊掲載)

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