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連載・特集

この人の〝反核〟 <9> 杉村春子(俳優、1906~97年) 「今を生きる」決然の舞台

先輩俳優の被爆死 悼み続け

 杉村春子は広島市に生まれ、上京して劇団文学座を長く率いた名優だ。主人公の布引けいを947回演じた「女の一生」(作・森本薫)は、杉村の代名詞といえる舞台。明治から昭和への時代、家を守ってたくましく生き抜く主人公の名せりふでも人々の記憶に刻まれた。

 「だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの。間違いと知ったら、自分で間違いでないようにしなくちゃ」―。

 没後27年がたつ今は、往年の名作映画で思い当たる人が多いだろう。筆頭は、小津安二郎監督「東京物語」(1953年)で演じた、尾道から上京した老父母をつい疎んじてしまう長女役。その演技の絶大なリアリティーは、いかなる代役も思いつかない。

 長いキャリアをたどると、ヒロシマとの関わりは幾つも浮かぶ。原爆症を物語の背景とした新藤兼人監督「母」(63年)への出演や、東京の原爆被害者をはげます集い(66年)などへの協力。原爆を扱ったドキュメンタリーの金字塔「碑(いしぶみ)」(広島テレビ制作・69年)では、旧制広島二中1年生の「全滅の記録」を切々と朗読した。

 文学座は、終戦から5年の50年に杉村たちがアトリエ(稽古場)を建てた東京・信濃町を今も拠点とする。事務所棟を増築したが、当初の木造アトリエも現役だ。文芸編集室の徳田玲子さん(64)が、杉村の関連資料を見せてくれた。

 70年に上演した「冬の花」の台本は福山市出身の小山祐士の作で、「ヒロシマのこころ」の副題を持つ。被爆者でもある元新聞記者の役を俳優座の東野英治郎、その妻を杉村が演じた。ベトナム戦争が続く当時の世相を描き、夫婦のよどんだ関係に原爆の影がにじむ。

 舞台の記録写真からは杉村の熱演ぶりが伝わる。徳田さんは「戦争の悲惨さを身をもって知っている世代。演劇人として込めた反戦、反核の思いには揺るぎないものがあったはず」と語る。

 文学座が39歳の杉村を主役に「女の一生」を初演したのは太平洋戦争末期の45年4月11~16日、東京・渋谷の東横映画劇場だった。予定していた劇場が3月10日の大空襲で焼け、変更した先だ。たびたびの空襲警報に寸断されながら10回の上演を果たしたという。

 明日をも知れない戦時下の体験。その緊張感のようなものは戦後も、杉村の俳優人生、演技への態度に絶えず感じられる。「戦争や原爆を扱った作品を演じる際は、なおのことだったと思う」と徳田さん。「女の一生」の名せりふから引けば、「間違い」を繰り返さない決意も、戦争に重ねてそこにあったかもしれない。

 広島市民劇場の元事務局長亀岡恭二さん(80)は、杉村の舞台を広島で通算17回見たという。市民劇場は、文学座をはじめ各劇団の舞台を地方へ誘致する会員制の演劇鑑賞団体。「広島駅に着いた杉村さんたちを、タクシーでホテルに送り届けるのも私らの役目だった」

 杉村は定宿に着くと、誰を誘うでもなく、宿から遠くない平和大通り沿いの「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」(中区)を訪れて手を合わせた。「広島来演の都度、欠かさなかった」と亀岡さん。1度同行した際、杉村は終始無言だったという。

 さくら隊(桜隊)は、戦時下に慰問や戦意高揚のため編成された移動演劇隊の一つ。45年8月、広島市内の宿舎兼事務所にいた俳優の丸山定夫、園井恵子たち9人が被爆し亡くなった。杉村にとって、とりわけ丸山は築地小劇場の名優として憧れた存在。共演を通じ、その芸に学んだ先輩だった。

 文学座も戦時下、移動演劇を担っていた。桜隊の運命は、杉村たちに降りかかったとしても何の不思議もなかった。「杉村さんにとって丸山たちの記憶は、決然と今を生き、命懸けの舞台を届ける姿勢を支えていた」と亀岡さんはみる。

 映画で杉村の最後の出演作となったのは、新藤監督の「午後の遺言状」(95年)だ。新藤の著書によると、長野・蓼科高原でのロケ時に88歳だった杉村は、木漏れ日の中、足元に芽吹くゼンマイを見て「生命のかたまりみたいね」と言い、続けた。「私には今日があるだけ。昨日も明日もないわ」(道面雅量)

すぎむら・はるこ
 現在の広島市中区に生まれ、養父母に育てられた。1922年に山中高等女学校を卒業後、声楽家を目指し上京するが、受験に失敗して帰郷。広島女学校(後の広島女学院)の代用教員に就いたものの、築地小劇場の舞台を見て感激し、27年に再上京して新劇俳優の道を進んだ。37年、文学座の結成に参加。74年、文化功労者。95年、文化勲章の候補に挙がったが辞退した。

(2024年10月30日朝刊掲載)

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