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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月30日 「悲痛断腸」 市女で慰霊式

 1945年10月30日。広島市舟入川口町(現中区)の市立第一高等女学校(市女、現舟入高)が講堂で慰霊式を営んだ。現在の平和記念公園(中区)南側の建物疎開作業に動員されていた1、2年生541人を含む生徒666人、教職員10人が原爆で犠牲になった。

 「悲痛断腸の思でございます」。宮川造六校長(75年に74歳で死去)の弔辞の文面が舟入・市女同窓会に残る。「広島市を焼夷攻撃より救ふための疎開作業に奉仕して唯一途に純真の真心を捧(ささ)げて努力して参りました」と動員の末に命を奪われた生徒たちを悼んだ。

 8月6日朝、宮川校長も元安川西岸に面した1、2年生の作業現場に出たが、朝礼などの後に別の用務に向かい、広島駅近くにいて一命を取り留めた。一方、爆心地から約500メートルの現場では、生徒たちが遮るものなく猛烈な熱線に焼かれていた。

 「死屍(しし)累々としてその惨状は言語に絶し、諸先生並に生徒の屍体を求むれ共、区別つかず」(弔辞)。衣類の名前が焼け残った一部の生徒のほかは個人を特定する手だてがなく、やむなく職員で遺体を集め、軍に頼んで火葬したという。

 遺骨は学校に持ち帰った。市女の「昭和廿年八月六日罹災(りさい)関係 経過日誌」は14日に学校で僧侶による読経と「分骨」をし、遺族約100人が参列したと記録する。

 助かった教職員や生徒たちは爆心地から約2・2キロで壊れた校舎の修理を進めた。元職員の故古田加茂太さんの手記によれば、授業は10月下旬から本格的に再開。ただ、宮川校長は弔辞にこう記した。「毎夜夢醒(さ)むる毎(ごと)に久しく親しんだ同僚諸先生の面影が目先に写って参ります。凜々(りり)しく可憐(かれん)に立ち列(なら)んだ生徒の顔がまぼろしに表れて参ります」(編集委員・水川恭輔)

(2024年10月30日朝刊掲載)

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