×

ニュース

[ヒロシマドキュメント 1945年] 10月 焼失免れた段原地区

 1945年10月。広島市の段原地区(現南区)に、壊れた家並みが広がっていた。原爆で大半の家屋が半壊以上の被害を受けたが、爆心地側にある標高約70メートルの比治山の陰となり焼失は免れた。

 農村部から都市への人口流入の影響で、大正末期に急速に発展した段原地区。被爆前は民家や商店が2千軒余り立ち並び、約8千人の住民がいた。

 8月6日、広島一中(現国泰寺高)2年だった才木幹夫さん(92)=中区=は、家族6人で暮らしていた段原中町の自宅で被爆。爆心地から2・2キロで自身は無事だったが、建物の柱が傾き、壁はほとんど崩れた。

 「段原は見渡す限り民家が壊れていた。驚いていると、比治山の向こうは火が燃え広がっていた」と才木さんは記憶する。しばらくすると、市中心部から重傷者たちが逃れてきた。「やけどで顔が腫れ上がって目が見えないから、みんな前の人に続いて数珠つなぎのように歩いていた」。器に水をくんで渡した。

 的場町(現南区)で被爆してやけどを負った父に代わり、直後から自宅の修復に取りかかり、毎日のように的場町へ屋根瓦を拾いに行った。近所の住民たちも家を直して住み続け、8月半ばから順次、食品をはじめとした店舗が営業を再開した。

 段原地区は従来の住民に加え、地区外で家を失った人たちも移り住み、市の復興を支える一つの拠点にもなった。ただ、細い道が入り組み、戦前からある住宅と戦後に建ったバラックが密集。周囲の都市化が進む中で取り残され、市の再開発が始まるのは73年のことになる。(山下美波)

(2024年10月31日朝刊掲載)

年別アーカイブ