[ヒロシマドキュメント 1945年] 10~11月 中国配電の被害を調査
24年11月1日
1945年10~11月。岸本吉太さん(89年に87歳で死去)は中国配電(現中国電力)から配電設備の被害調査を頼まれ、廃虚の広島市中心部にカメラを向けた。
爆風で倒壊した鉄柱や、放射熱で爆心地方向が焼け焦げた木柱、全焼した千田町発電所を写した。爆心地から680メートルの本店屋上から四方を撮ったカットもある。広島支店が46年にまとめた「原子爆弾に依(よ)る電気工作物の被害調査」に30枚が載る。
戦前から田中町(現中区)で写真館を営んでいた岸本さんは、妻と疎開先の牛田町(現東区)で被爆した。「カボチャの給食があるから」と、長女澄江さん=当時(8)=は爆心地から約700メートルの広島陸軍偕行(かいこう)社付属済美(せいび)国民学校へ。妻が牛田と白島(現中区)を結ぶ神田橋近くで見つけたが「お母さん、来るんが遅かった」と言い残し、救護所に運ぶ途中に亡くなった。
岸本さんは「娘を失ったことで、カメラを手にする気にはならなかった」(78年10月14日付中国新聞夕刊)と打ちひしがれた。しかし中国配電の依頼を機に、惨状の記録が「生き残った一人の市民としての義務」(71年刊の「広島原爆戦災誌」)と決心した。戦後も写真館を経営。53年まで中電本店屋上から撮影を続け、復興する街の姿をつぶさに収めた。
岸本さんが大切にしていた澄江さんの遺品を、長男坦(ひろし)さん(2020年に85歳で死去)の妻瑞代さん(86)=中区=が保管する。集団疎開中の坦さんに宛て「お兄ちゃんそちらへ行ってさびしくありませんか」などとつづった手紙だ。「澄江さんに重なったのか、私に娘が生まれると義父は小学生の頃まで一緒に寝るくらいかわいがっていました」(山下美波)
(2024年11月1日朝刊掲載)
爆風で倒壊した鉄柱や、放射熱で爆心地方向が焼け焦げた木柱、全焼した千田町発電所を写した。爆心地から680メートルの本店屋上から四方を撮ったカットもある。広島支店が46年にまとめた「原子爆弾に依(よ)る電気工作物の被害調査」に30枚が載る。
戦前から田中町(現中区)で写真館を営んでいた岸本さんは、妻と疎開先の牛田町(現東区)で被爆した。「カボチャの給食があるから」と、長女澄江さん=当時(8)=は爆心地から約700メートルの広島陸軍偕行(かいこう)社付属済美(せいび)国民学校へ。妻が牛田と白島(現中区)を結ぶ神田橋近くで見つけたが「お母さん、来るんが遅かった」と言い残し、救護所に運ぶ途中に亡くなった。
岸本さんは「娘を失ったことで、カメラを手にする気にはならなかった」(78年10月14日付中国新聞夕刊)と打ちひしがれた。しかし中国配電の依頼を機に、惨状の記録が「生き残った一人の市民としての義務」(71年刊の「広島原爆戦災誌」)と決心した。戦後も写真館を経営。53年まで中電本店屋上から撮影を続け、復興する街の姿をつぶさに収めた。
岸本さんが大切にしていた澄江さんの遺品を、長男坦(ひろし)さん(2020年に85歳で死去)の妻瑞代さん(86)=中区=が保管する。集団疎開中の坦さんに宛て「お兄ちゃんそちらへ行ってさびしくありませんか」などとつづった手紙だ。「澄江さんに重なったのか、私に娘が生まれると義父は小学生の頃まで一緒に寝るくらいかわいがっていました」(山下美波)
(2024年11月1日朝刊掲載)