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連載・特集

ノーベル平和賞と被団協 取材者の証言 <1> 元論説主幹 江種則貴

原水爆「被害者」 意味の深さ

藤居平一さんに諭されて

 この人がいたからこそ今回のノーベル平和賞受賞が実現した。そんな功労者をあえて3人に絞るとすれば、やはりこの人は外せないだろう。

 被爆者運動の黎明(れいめい)期をけん引し、日本被団協初代事務局長を務めた藤居平一さん(1915~96年)。「まどうてくれ(元に戻してくれ)」の広島弁で粘り強く、被爆者や遺族の援護を国に訴えた。57年施行の原爆医療法はまさに、この人がいなかったら日の目を見たかどうか…。

 そうした業績の数々はスケールの大きな人柄とともに、常に語り継がれてきた。ここでは、藤居さんが没した翌年に刊行された追想集「人間銘木」へのわが拙文を抜粋し、被団協が誕生したころに思いをはせたい。

 初めて藤居さんにお会いしたのは91(平成3)年の12月。日本被団協初代事務局長としての回顧談を聞かせていただくためだった。だが、気軽に出かけたことを、すぐに悔やんだ。

 その時、藤居さんは補聴器を付けていなかった。だから、大きな声で話される。こちらも負けじと声を張り上げるのだが、それでも通じない。これには困った。

 そして何よりも、話す内容そのものが大きくて重かった。日本被団協の創設、原爆医療法制定の苦労話…。何も知らない若造の私に向かって、藤居さんは熱っぽく語り続けるのである。

 驚いたのはその記憶の確かさ、舌鋒(せっぽう)の鋭さ。声の大きさもあって、聞いている私自身が𠮟られている気になった。「しっかり予習してくるんだった」と後悔した。

 私が早稲田大の後輩だったためもあるのだろう。その後も随分とかわいがっていただいた。

 原爆関連の署名記事を書くと、よく電話をいただいた。トレードマークの細いマフラーを肩から下げ、広島市役所の記者クラブに訪ねて来られることも多かった。そのたびに国や自治体の行政に苦言を呈し、知識人の無知を嘆き、マスコミの不勉強を戒められた。甘言はなかった。いつもわが身を反省させられた。

 ある日、膝を悪くして入院されている藤居さんを見舞ったことがある。「おう、江種君か。ちょっと待ってくれ」。藤居さんは新型の補聴器を取り出した。思わず、ほっとしたのを覚えている。

 でも藤居さんの声は、やっぱり大きかった。

 実は藤居さんは法律上の「被爆者」ではない。東京から廃虚の広島に戻ったのが8月23日だから「原爆投下から2週間以内」という入市被爆者の定義を3日の違いで満たさない。それでも生前、愚痴めいたことは決して口にしなかったようだ。

 ただ私は藤居さんから「被団協の正式名称をよく覚えておきなさい」と諭された。日本原水爆被害者団体協議会-。被爆者だけでなく、父と妹を原爆で失った藤居さんら遺族を含め、さらには全ての原水爆「被害者」をも広く包み込む意味の深さを今こそ再認識しておきたい。

 そして、被爆者運動の行く末を見据えていた藤居さんの口癖をあらためて胸に刻みたいと思う。いわく「庶民の運動が世界史を変える」。

 今回の受賞を藤居さんならどう受け止めるだろう。「いや、ゴールはまだまだ」と、あの大きな声で一喝する姿がまぶたに浮かんでくる。

    ◇

 12月10日、日本被団協にノーベル平和賞が授与される。自らの体験を語り、「核のタブー確立に大きく貢献した」と評された努力の陰には、膨大な運動の積み重ねと裾野がある。結成以来68年間の歩みに改めて注目が集まる今、中国新聞の元記者が再び筆を執り、取材経験をつづる。

えぐさ・のりたか
 1982年中国新聞社入社。91~95年、原爆平和問題を担当し、その後も広島市政キャップや報道部長、ヒロシマ平和メディアセンター編集部長、編集局長などを歴任。

原爆医療法
 正式名称は「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」。被爆者を定義し、被爆者健康手帳を交付。健康診断と認定被爆者への医療給付を行った。被爆から10年以上後もなお被害に苦しむ人がいることを国が公的に認め、健康管理と医療を行う点などに意義があった。のちに1968年制定の被爆者特別措置法と一本化され、94年の被爆者援護法制定につながった。

(2024年11月4日朝刊掲載)

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