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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 矢野美耶古さん―生き残り 自分を責めた

矢野美耶古(やのみやこ)さん(93)=広島市西区

「国のために死ぬ」教育 繰り返させない

 広島県被団協(佐久間邦彦理事長)の理事で、若い世代に被爆体験を語り続けてきた矢野(旧姓池田)美耶古さん(93)は被爆当時、広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)2年生。爆心地近くでの建物疎開(そかい)作業に動員された1、2年生を含(ふく)む生徒666人、教職員10人が犠牲(ぎせい)になった学校です。あの日、作業を休んだ14歳の矢野さんは約4キロ離れた自宅で被爆。一命を取り留めましたが、戦後に待っていたのは、「生き残った」ことへの負い目と心ない言葉でした。

 1945年8月6日、矢野さんは自宅である宇品(現南区)の神田神社に両親と姉2人、叔母(おば)といました。前夜からおなかを壊(こわ)していて、迎(むか)えに来た友人に欠席届を託し、休んでいたのです。

 突然ピカッと光り、畳(たたみ)ごと吹き上げられました。脚にガラス片が刺(さ)さりましたが、最初は気づきませんでした。外に出ると境内の松が半分熱線で焦(こ)げ、周囲の木々は倒れていました。やがて火球が上がり、きのこ雲が広がって真っ暗に。しばらくすると真っ赤に焼けただれた人たちが神社に逃げてきます。「手当てはできませんが、負傷者を受け入れ、私たち一家は野宿しました」

 翌朝驚いたのは「無傷に見える人が死んでいたこと」です。放射線の知識があるはずもなく「何が起きたのか分かりませんでした」。遺体は近くの広場で火葬(かそう)され矢野さんは火の番をしました。

 9月、久しぶりに登校し、建物疎開作業に動員された級友たちの死を知りました。先生から「そこの生き残り」と呼ばれ、友人の遺族には「真面目に行った子が死んでサボったもんが生き残って」と責められました。思い詰め、何度も川に飛び込もうとしましたが、泳ぎが得意だったのでそれもできません。「生きているのが申し訳なく、死ぬことばかり考えていました」

 17歳の頃からは貧血がひどくなり、20代で急に歯が抜け落ちました。体に異変があるたび「原爆のせいでは」と不安でしたが、生き残ったことへの負い目から引きこもって過ごしました。

 被爆から19年がたって初めて、市女1年生だった妹を亡くした遺族の被爆手記を読みました。「もし原爆が前日に落とされていたら私も同じように死んでいた。生きているのだから、できることをしなくては」

 手記を書いた名越操(なごやみさお)さん(86年に56歳で死去)を知人から紹介され証言活動に同行するようになりました。被爆体験の聞き書きにも加わりました。60年代のある日、名越さんの代役で話したのを機に、人前で体験を語るようになりました。

 「十五年戦争」が始まった31年生まれの矢野さん。爆心直下で亡くなった学徒を「戦争の中でしか生きられなかった」と表現します。「軍歌や(戦争になれば天皇(てんのう)のために命をささげ、尽(つ)くすことなどを定めた)教育勅語(ちょくご)を覚え、国のために死ぬのが当たり前と教育を受けてきた。生き残るなんて考えたこともなかった」

 若い世代に同じ思いをさせたくないと、つらい記憶を語ってきました。「あの戦争がどれだけの命をむだにしたか、生き残ったからこそ分かる。戦争は誰が何のためにやるのか、しっかり考え、止める力になって」と語りかけます。(森田裕美)

私たち10代の感想

「戦争止めて」訴え胸に

 矢野さんから「生き残った」ことへの後悔や、覚悟のようなものを感じました。印象的だったのは、矢野さんが私たちに「今、世界で起こっている戦争を止めてほしい」と語ったことです。平和な未来を築くため、私たちが今できることとして、被爆者の声を受け止め、広め、行動していかなくてはと強く思いました。(中3亀居翔成)

過去知って今に意識を

 矢野さんの「私は軍歌で大きくなった」という言葉が何を意味するのか、証言を聞いて分かりました。当時は軍歌などを通して「お国のために死ぬ」という考えが浸透(しんとう)し、矢野さんは「生き残り」と言われ、苦しみました。恐ろしいのは無知や無関心。過去を知り、戦争が続く今の世界にも意識を向けたいです。(高2中野愛実)

 今回の取材で初めて「第二国歌」という言葉を知りました。太平洋戦争のとき、「君が代」に加えて戦意高揚を目的に作られた軍歌の「海ゆかば」が第二の国歌と呼ばれ、矢野さんは学校で歌わされたと話していました。国のために死ぬ覚悟で戦う決意を表した内容です。
 また矢野さんは被爆した際、脚に刺さったガラス片が今でも体内に残っているそうです。同級生をたくさん亡くし女学校の先生に「生き残り」と呼ばれたことが、とてもつらかったと話していました。戦争は人を心身共に傷つけます。次の戦争が起こらない世界を目指してこれからも発信を続けたいです。(中1森本希承)

 矢野さんは、昔から「国のために死ぬのは名誉」であるという教育を受けてきました。当時は多くの国民がこの言葉を信じていたそうです。8月6日の朝、体調が悪くて学校を休んだ矢野さんは助かりましたが、休まずに建物疎開に行って亡くなったクラスメートの親や、学校の先生から「生き残り」や「さぼった非国民」と言われたそうです。生き残ったことがつらく、死を考えた矢野さんを思うと、胸が痛みます。
 今年の10月11日、日本被団協がノーベル平和賞を受賞し、矢野さんは「本当に良かった」と言っていました。矢野さんのようなつらい思いを誰にもさせないために、被爆者の体験を受け継ぎ、平和を訴え続けていかなければならないと思います。私は戦争に行きたくないし、誰も殺したくないし、誰にも死んでほしくありません。(中1岡本龍之介)

 一番印象に残ったのは、原爆で亡くなった下級生たちは「戦争の中でしか生きられなかった」という言葉です。それを聞いて、8月6日に何が起こったのかも知ることができないまま、たくさんの子どもたちが亡くなっていった現実を改めて考えました。戦争の中でしか生きられない人をつくらないためにも、原爆や戦争の悲惨さ、恐ろしさを伝えていこうと思います。(中1小林菫)

 矢野さんが何回も言われていた「戦争は誰が何のためにやったのか」という言葉が印象に残りました。戦争をして得をする人なんていないと思います。
 矢野さんは戦争中、まともなご飯が食べられず、米ぬかに水を加えたものを食べていたそうです。想像しただけでも食べたくないものですが、それしか食べるものがなかったことを考えると、戦争は日常の暮らしから、多くの人々を苦しめるのだと改めて思いました。原爆の被害はもちろんですが、戦争の被害はそれだけではないということも含め、実態を伝えていきたいです。(中2山下綾子)

 矢野さんのお話を聞いて1番心に残ったことは、被爆後に亡くなった人を、火葬した経験を聞いたことです。矢野さんが家族で住んでいた神田神社に、次々負傷者が避難してきて亡くなっていったそうです。また、戦後に学校に行くと先生に「生き残り」と呼ばれていたことがとても辛かったと聞きました。矢野さんは、「若い人の力は大きく、世の中に影響を与える」とも話していました。私はジュニアライター活動を続けることで、社会に影響を与えたいと思います。(中2石井瑛美)

 矢野さんは爆心地から4キロ離れた場所での被爆ですが、爆心地近くで放射線を浴びて逃げてきた被災者の死体を焼く番をしたことで、何年もたってから内部被曝の影響が疑われる症状が出たそうです。矢野さんは「けがや大やけどの痕が残る人だけが被爆者ではなく、目に見えない放射線被曝で苦しんでいる人もいる」と言っていました。また「生き残り」と呼ばれるのがつらく、死を考えたこともあると聞いて驚きました。生き残ったことは本来うれしいことのはずなのに、それをつらいと思わせてしまう原爆の被害にも、もっと注目するべきだと感じました。(中3川鍋岳)

 矢野さんの「一年下の子は戦争の中でしか生きることができなかった」という言葉がすごく腑に落ちました。戦時中に生まれ、戦時中に死んでしまった子どもたちは、戦争の中でしか生きられず戦争の光景しか見られなかったことを再認識できました。それは今、世界で起こっている戦争でも共通することです。現在の戦争が長引くことで、そういった子どもたちがどんどん増えていくのかと思うと、危機感をおぼえました。(中3行友悠葵)

 矢野さんが被爆した宇品の神田神社は私が七五三の時にお詣りに行った場所で、私にとってなじみのある場所ですが、爆心地から離れているにもかかわらず、爆風などの被害があったということは初めて知りました。
 また矢野さんは、戦後に「生き残り」や「非国民」と言われ、死のうとさえ思ったそうです。しかし死んでいたら戦後の世の中で何が起きたかも分からなかったので、今は生きていて良かったと話していました。
 世界情勢が不安定な今、「ヒバクシャ」の力はとても大きいと思うので、話を聞いた私は、これからも積極的に活動をしていきたいです。(高1山代夏葵)

 「おい、生き残り」「さぼった非国民」と言われるのが辛かった。8月6日、同級生や友だちは皆、原爆で死んだのに、腹痛で学校を休んだために生きている自分を恨むこともあった―。そう語る矢野さんの姿に胸を打たれました。自分のせいで友達が亡くなったわけでもなく、自分のせいで他人を悲しませたわけでもない、それなのに、悪人のように扱われるなんて、私には到底耐えられないと思います。このような状況でも「生きることは幸せ」と考えるようになった矢野さんに頭が下がりました。

 また戦時中、学校では「教育勅語」を全員できるまで覚えさせられたり、理不尽なことを先生に質問すると「聞いてはならない」と言われたりしていたそうです。私たちが通う現在の学校とは大きく異なることに衝撃を受けました。まず私たちは「知る」ことから始めたいです。(高1新長志乃)

 今回の取材では、被爆体験だけでなく、戦争中の暮らしについても詳しく聞けました。学校で子どもたちが「スパイ」「非国民」という言葉を自然に使っていたという話を聞き、恐ろしいと思いました。また広島に被団協が2つあることや、その活動についても多くの人に知られるべきだと感じました。矢野さんは私たち若い世代に会って「元気をもらい、沢山のことを学んだ」と言ってくださいました。これからも多くの被爆者に寄り添って話を聞ける記者になりたいです。(高1戸田光海)

 矢野さんは原爆によって言葉では言い表せないほどのつらい体験をし、今な心身に傷を負っています。それでも「日本が何をしてきたのか、誰が何のために戦争をしたのか知ることができたから、生きていてよかった」と思うそうです。当時は真実を知らないまま、亡くなっていった子どもたちが多くいます。私たちはあらゆる情報を手に入れられる自由な時代に生きているからこそ、平和を実現するために必要なことは何か、見極め、決断していく必要があります。「被爆者がいなくなってからでは遅い」という矢野さんの言葉を胸に、一人でも多くの被爆者と出会い、体験を聞き、次の世代へ責任を持って語り継いでいきたいです。(高2藤原花凛)

(2024年11月4日朝刊掲載)

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