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[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月ごろ 逓信局庁舎で仮住まい

 1945年11月ごろ。広島県警察部の写真班員で被害状況を撮影して回った川本俊雄さんは、爆心地から約1・3キロ北東の広島逓信局(現広島市中区)を撮影した。特徴的なL字型の鉄筋4階建てで、南側が被爆時に全焼。北側も4階を焼失していた。 r>r>  郵便や貯金、電信電話など幅広い業務を担い、NTT西日本中国支店によると、被爆前の職員数は約650人。約60人が被爆死した。助かった職員も住まいを失うなど被害は深刻だった。 r>r>  北側が応急整備されて復旧業務の場となったが、「家のない職員は三、四時間もかかる所から通ったり、逓信局庁舎内に雑居していた」。逓信局職員だった故桜井俊二さんは45年末にかけての窮状を「広島郵政原爆誌」(83年刊)に記す。仮住まいとなった庁舎は吹きさらしの部屋に衣服が干された。46年に近くにバラックの宿舎を急造した。 r>r>  逓信局は、そばの広島逓信病院に入りきらない負傷者の収容場所にもなった。沼田鈴子さん(2011年に87歳で死去)も「逓信局の一階が、仮収容所になり、私もそこに入りました」(以下、97年刊「追憶の手記集」収録の手記)。「入院」は1年半に及んだという。 r>r>  当時22歳で、勤務先の逓信局でがれきの下敷きに。けがをした左足首の傷口が悪化し、8月10日に太ももを切断した。終戦直後に婚約者の戦死を知り、さらに打ちのめされた。「生きること、考えることすら失っていた」「自殺から離れられない日々が続きました」 r>r>  4回の手術を受けて47年3月に退院後、逓信局の中庭で被爆したアオギリが芽吹いているのを知った。「生きることへの思いを、木が教えてくれたのです」。73年に平和記念公園(現中区)に移植されたアオギリの下で晩年まで証言を続けた。(山下美波) r>r> (2024年11月4日朝刊掲載)

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