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[ヒロシマドキュメント 1945年] 10~11月 復興へ送電再開に懸命

 1945年10~11月。広島市内で写真館を営んでいた岸本吉太さんに配電設備の被害調査を依頼した中国配電(現中国電力)は、送電の復旧作業を進めていた。

 原爆投下により、爆心地から約700メートルの小町(現中区)にあった鉄筋5階地下1階建ての本店は内部が焼け、外観だけが残った。本店や研屋町(同)の広島支店など関係施設で274人が犠牲に。爆心地から1キロ以内の木柱は8割以上が焼失した。

 中国電力が被爆と復興の記録をまとめた「あの日 あのとき」(95年刊)によると、8月6日は「暗黒の一夜」。翌7日に段原変電所を応急修理し、宇品方面に送電を開始した。20日には残存家屋の約3割に電気が届いた。

 後に副社長となる故真田安夫さん(04年に100歳で死去)は広島支店長として「市の復興はまず電気から」と掲げ、「不眠不休」で復旧を指揮した。ただ、電線など資材の確保は容易ではなく、焼けた電線を使って配電線を仮設した。市民も電線を拾い集めてつなぎ合わせるなど、素人工事で電灯をつけた。

 真田さんは軍の電気関係資材の払い下げを受けられるよう広島県府中町の東洋工業(現マツダ)に置かれていた県庁に連日通った。半年ほど一日も休まなかったという。

 「きのう、きとったひとが、きょうはきとらんといった具合でしてね。そのころは、原爆症で、けがしとらんひとが、ぞくぞく死んでいったりしましてね」(88年刊の「広島経済人の昭和史」)。自身も市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の2年生だった娘を亡くし、11月8日には息子も息を引き取った。

 中国配電は11月末までに全ての残存家屋への送電復旧を終えた。(山本真帆)

(2024年11月2日朝刊掲載)

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