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[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月6日 住宅木材や薪炭不足

 被爆から3カ月の1945年11月6日。中国新聞は2面で「罹災(りさい)民の冬をどうする」の見出しを掲げ、寒さをしのぐために重要な物資が不足する現状を記事で伝えた。

 一つは住宅再建に必要な木材。広島県は半壊家屋などの修理用木材約50万石(約14万立方メートル)の確保を目指していた。ただ、供給を担う「広島県地方木材統制株式会社」の手持ちは3分の1以下の約14万~15万石だった。広島市で5千戸の簡易住宅建設を計画する住宅営団も同社に資材を求めていたが、「早急には調達不可能」と報じた。

 同社は、爆心地近くの広島県産業奨励館(現広島市中区の原爆ドーム)に本社があり、「人員に相当多数の犠牲者を出した」(記事)。10月に現在の西区に移転して復興資材の調達に努めていたが、風水害で「鉄道ならびに道路の崩壊による輸送力の低下」(同)にも見舞われていた。

 また、冬に向けて燃料の「薪炭」も不足が見込まれていた。供給に携わる会社は、水害の影響で産地の島根県から鳥取県と岡山県を結ぶ伯備線を経由しての調達を余儀なくされていたという。

 同じ時期、中国新聞の下段の広告欄は、慰霊祭の告知や安否連絡の呼びかけが相次いで載った。11月5日付では八丁堀(現中区)に本館があった広島財務局が、6日に慰霊祭を開くと伝えた。関係する広島税務署の職員や動員されていた学徒を合わせて144人が被爆死した。

 県産業奨励館にあった内務省中国四国土木出張所は、5日付と6日付の広告欄に「生死不明」の職員12人の名前を載せ、「安否ヲ御存知ノ向ハ至急連絡」を求めた。12人の1人は「木村春江」さん。弟英雄さん(89)=安佐南区=によると、8月6日、勤めに出た後に行方不明となり、今も遺骨は見つかっていない。(編集委員・水川恭輔)

(2024年11月6日朝刊掲載)

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