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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 岩崎誠 「広島1994」の意味 アジア大会の遺産 生かせたか

 30周年という節目が、広島市内のあちこちで目立つ。偶然ではない。1994年10月2日から16日まで開催された、広島アジア競技大会の名残である。

 市北西部の丘陵を切り開いた西風新都。その中核に当たる広島広域公園(安佐南区)の競技施設をはじめ、市中心部との間を結ぶアストラムラインに代表される交通網や商業・宿泊施設、さらに教育機関に至るまでが「1994」を目標に一気に整えられ、そこに官民が巨費を投じた。原爆の惨禍から復興した広島の戦後史においても重要な画期と言えよう。

 そういえばあの秋も暑かった。地方都市で初のアジア大会と、まちの変化を本紙取材班の一員として見聞した。大会のメイン会場、広域公園の広島ビッグアーチ(現ホットスタッフフィールド広島)のスタンドを観衆が埋め尽くした開会式の光景は忘れられない。

 少々の不備やトラブルを乗り越え、アジアとの友好を演出した大会運営は成功と評価された。とりわけ公民館ごとに割り当てた「一館一国・地域応援事業」は継続的な交流活動こそ総じて先細りしたものの、後に五輪などのお手本となる秀逸なアイデアだった。

 一方で閉会式の夜には会場を去る選手を見守りつつ、うたげの終わりの虚脱感を覚えたものだ。一過性のイベントのため背伸びした都市の行く末も気になった。

 30年の歳月が流れ、当時の記憶が語られることがめっきり減っている。まちづくりの発想も変わった。その象徴が市中心部にことし開業したエディオンピースウイング広島だろう。サンフレッチェ広島の本拠地が、アクセスに難ありと言われ続けた広域公園から「山を下りてきた」格好になる。

 アジア大会とは何だったのかと考えたくもなる。昭和の発想に立つなら、よくできたパーフェクトに近い都市戦略だったはずだ。

 西風新都はかつて西部丘陵都市と呼ばれ、乱開発に歯止めをかけるため75年から造成が凍結されていた。そこに国際スポーツ大会を誘致して一大競技施設を築き、基盤整備の起爆剤とする構想が生まれ、アジア大会開催に至る。主要アクセスとして18・4キロの新交通システム(アストラムライン)を通し、民間の高層マンションを分譲前に選手村に活用する―。

 しかし箱物とインフラ整備で人の流れを拡大・分散させていく手法と、少子高齢化などの社会構造の変化に直面する現状の広島とのギャップが広がっているのは確かだろう。今はコンパクトシティーが一つの姿として語られ、街中のにぎわいが優先課題とされる。

 大会の関連事業の負担もその後の施設維持費を含め、長く市財政の重荷であり続けた。さらに言えば連動した民間プロジェクトは、都心においても順風満帆ではなかった。94年に完成した複合施設の基町クレドでは35階建てのリーガロイヤルホテル広島はランドマークとして健在だが、そごう広島店の新館は昨年閉館となり、心機一転のリニューアルが進む。

 その中で「1994」の意味を今、どう考えればいいのか。

 10月に西風新都の内外で営まれた「30周年」行事に足を運んだ。一つはアストラムラインの30周年イベントだ。車両基地の検車棟を開放し、車両運転台の操作体験などに列を作る子どもたちの姿がほほえましい。沿線の暮らしを支えてきたのは間違いない。JR西広島駅まで7・1キロを延伸する計画の地元説明が始まったが、沿線の人口が減るとすればどんな戦略で乗客を増やせるだろう。

 開学30年を迎えた広島市立大が大学祭に合わせて開いた地域共創シンポジウムも興味深かった。大学を挙げて地域連携の活動を強化していることが語られた。卒業生は1万人以上。情報、国際、芸術、そして平和という限られた分野とはいえ若者の流出に歯止めをかける役割がさらに求められる。

 あれこれ考えつつ、西風新都を久々に車で回った。心なしか広域公園周辺に人は少ない。宅地にコンビニが増えたのに驚いた。車のディーラーや学習塾も目立つ。当初の目標だった人口10万人の自立都市は遠のいたが、段階的に分譲したため「若いまち」を維持しているようだ。大会の7年後に市中心部との間をトンネルで直結した広島高速4号線の開通効果も大きく、ここに暮らす同僚によると、住み心地はいいという。高齢化という郊外団地の宿命に向き合うのはこれからかもしれない。

 あの大会の遺産がどのように生かされ、どう変わったのか。未来のまちづくりを考える上でもつぶさに検証しておく場があっていいと思う。何よりの理念だったはずの「アジアとの共生」が、どこまで根付いているかも含めて。

(2024年11月7日朝刊掲載)

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