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[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月ごろ 廃虚の本通り 復興探る

 1945年11月ごろ。中国新聞社写真部の松重美人(よしと)さんが、被爆前に広島市随一の繁華街だった本通り商店街(現中区)の光景を撮影した。西端は爆心地から数十メートル。600メートル近い通りに立ち並んでいた木造の商店は焼け、鉄筋建物も無残な姿をさらしていた。

 一角の播磨屋町で「中山楽器店」を営み、町内会や商店街の役員を務めていた中山良一さん(76年に87歳で死去)も原爆で店舗兼自宅を失った。ただ自身は8月6日午前8時ごろに出かけ、疎開先の牛田町(現東区)にいて助かった。

 孫の八津川恵理子さん(71)=尾道市=は「祖父は元教員で音楽教育の目的で店を始めた。責任感があり、大将みたいな性格も影響したのでしょう」。復興を先導することになった。

 中山さんは疎開して焼失を免れた町内会名簿を基に店主たちの消息をたどった。9月に八木村(現安佐南区)に集まった10人が草分(くさわけ)会(46年に広島本通商店街復興発起人会)として始動。連絡先が分かる人に手紙を出し、本通りに戻るよう呼びかけた。

 召集されていて福岡から入市被爆した中山さんの長男彰さん(91年に68歳で死去)は「道ばたに転がっていたお骨を拾って歩いた」(79年7月17日付中国新聞朝刊)と証言した。「広島本通商店街のあゆみ」(2000年刊)によると、46年の初めに「中央食堂総本店」が被爆後初めて本通りで店を開いたとされる。同じ頃、中山楽器店のバラックも建った。

 播磨屋町にあった生家の金物店が原爆で焼失し、両親やきょうだいを失った奥本博さん(94)=中区=は高松市の親戚宅に身を寄せ、4年後に自宅跡に戻った。中山さんから手紙を受け取っていたといい「復興への助言をもらい、よく気にかけてくれました」としのぶ。(山下美波)

(2024年11月7日朝刊掲載)

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