×

ニュース

[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月 ガス施設の復旧着手

 1945年11月。広島市大手町(現中区)にあった広島瓦斯(現広島ガス)の鉄筋3階地下1階建て本社屋は爆風で各階の床と天井が崩れ、残骸のままだった。爆心地から約250メートル。原爆投下時に出勤していた30人全員が亡くなった。秋になって、ガス供給に向けた復旧作業が進められた。

 清水新二さん=当時(44)=も犠牲者の一人。4歳だった息子の康弘さん(2023年に81歳で死去)が家族から聞き取って書いた手記によると、8月6日、牛田町(現東区)の自宅から自転車で出勤したきり帰らなかった。

 2人乗りで出ていった康弘さんの兄で市立造船工業学校(現市立広島商業高)1年の政登さん=同(12)=も亡くなった。母米子さん(05年に89歳で死去)が2人を捜して歩き回るも、遺骨すら手にできなかった。

 康弘さんは「至近距離でのその熱さはいかなるものであったのか」(手記)と父たちの死を悼んだ。戦後、大阪で暮らし、よく広島を訪れた。同行した次女の恵子さん(52)=大阪市=は「家族の足跡をたどっていた」と振り返る。

 「広島ガス100年史」(10年刊)によると、皆実町(現南区)にあった同社の広島工場も壊滅状態となり、従業員1人が巻き込まれた。木挽町(現中区)に建物疎開の作業に出ていた従業員30人も犠牲に。大手町(同)の旅館に泊まっていた岡山、松江など各地のガス事業者の幹部10人も被爆死した。国の産業統制に伴う事業統合を決めた前日の会議のため、広島市に集まっていた。

 広島地区のガス供給は30年代に約1万4千件あったが、被爆前は軍需工場が優先され、家庭は制限されていた。原爆で広島工場の供給管や屋内管は9割が損害を受け、供給は完全にストップ。翌年4月になって宇品方面などの235戸にガスの供給が始まった。(山本真帆)

(2024年11月8日朝刊掲載)

年別アーカイブ